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ふにやんま ー 世界の小所低所からー

http://funiyanma.hatenablog.com/  

『USJを劇的に変えた、たった1つの考え方』

『USJを劇的に変えた、たった1つの考え方』森岡毅(2016)

サラリーマンとして日々思うことを書こうというのも、本ブログの趣旨だったような記憶がかすかに。更新すらおぼつかない今日この頃。皆さん如何お過ごしでしょうか。

本書は今や『打率9割8分のマーケター』(分母も分子もよくわかりませんが)として名を馳せる森岡毅氏の、USJ改革の土台をなした考え方をまとめたもの。森岡流マーケティングの入門書としては最適かと。

周知の事実かとは思いますが、TDLに先行してチケット大幅値上げを断行した上での、来場者数V字回復それも"回復”どころか過去最高の年間来場者数(オープン初年度に記録)を更新し、前年同月比では今なお上回り続けているというから凄まじい。

USJの誕生以来のコンセプトである「映画」にとらわれず、ワンピース、エヴァンゲリオン進撃の巨人ハリーポッター(よく見ると全部映画になってますけどね)と、人気コンテンツを次々と導入。ゾンビを使ったハロウィン・ホラーナイトや、後ろ向きに走るジェットコースターなど、外部コンテンツに頼らない集客策でも異彩を発揮。国内マーケターとしてはまさに最高レベルの成果を既に挙げたかたです。

成功者のビジネス本ほど書きやすいものはない。何故なら後付け自由だから。

「文句の付けようがない」というチートの匂いが受け入れがたく、日頃から斜に構えている私ですが、本書を公平に評するならば、

読み易くて、為になった感じがして、なおかつ人に勧めやすい。

意外にオーソドックスで、奇を衒ったところがないんですね。感性だけでなく、数学的な分析手法を独自にマーケティングに活用、なんてくだりも企業人には刺さりそう。管理職や経営層の間でベストセラーになるのも分かります。さすがマーケターの書いた本。売上直結のゾーンを外さないわ〜。

ある人はカレーライスが良いと言う。別の人はすき焼きが良いと言う。そんなときに多くの会社では、誰かが頑張らないと「カレーすき焼き」を作って消費者に提供してしまうことになります。(中略)あなたが取るべき行動は、社内をカレーライス一本でまとめることです。決して「カレーすき焼き」を作らせてはいけません。 

本書で一番ウケた一文です。ここに本書の全てが凝縮されている感じ。サラリーマン経験のあるかたは身につまされませんか?できちゃうんですよね、カレーすき焼き。しかも頻繁に。

中庸を取るとロクなものは出来ない

みんな分かっているはずなのに、人が集まって会議をすると、何故か最後にカレーすき焼きができている。日本株式会社の構造的悲哀。

誰が何と言おうと、たとえ社長が「すき焼きが良い」と言っても、カレーライスで説得しなくてはいけません。消費者の求めるベストであるカレーライスで押し通す。それができなければ会社を勝たせることができないのです。こういうストレスのかかる環境で馬力が要求されるのもマーケターの宿命です。マーケティングをやる人は、そういう社内意思決定に関わる多くの部署や個人間のしがらみの中心に立たないといけません。

それってマーケターに限った話じゃないじゃん。とかいう突っ込みは野暮ですよね。結局、それぐらいでなくっちゃ駄目なんでしょうね。それが一番難しいと言えば難しいのですが。

あとは体験・体感主義ですかね。モンハンでもドラクエでも、自分で徹底的にやり込んでみる。労を惜しまず、コンテンツのコアな部分を自ら掴む。そうしないとファンのニーズに応えることが出来ない。

経年劣化していくコンテンツに毎年少しずつ投資していく(これまでの「映画」路線ですね)よりも、10年に1回「これだ!」というコンテンツに400億でも500億でも投資したほうが効果的だと言うならば、そのコンテンツにはまず自分が深く通じていなければならない。専任のコンテンツ担当じゃないですからね。そこは手を抜きたいでしょう、普通。既に流行ってるんだし。やはり大したものであります。

ビジネスで大きく成功する人って、自分の仕事への愛情というか自負がとても強い。マーケターとしての矜持が伝わってくるようで、なかなかいい本だと思いました。多分、誰が読んでも面白いですよ。

以上  ふにやんま

『丘の上のバカ』ぼくらの民主主義なんだぜ2

『丘の上のバカ』ぼくらの民主主義なんだぜ2 高橋源一郎(2016) 

月イチの「朝日新聞論壇時評」から4年分、48回をまとめたものが前著。その続刊が本書です。2200文字という量的制約と、新聞の広い読者層を踏まえて、2冊とも平易で読み易い。「民主主義とは何か」を自らに鋭く問いかけつつ、読者にも新たな啓発を与えてくれる良書です。たとえば。

民主主義から少し逸れるのですが、『もっと「速さ」を』という本書の一文から。

だれかがなにかを書いていて、ああ素敵だ、と思えるときがある。そういうとき、それはなぜだろうか、と考えると、そこに「知性」(の働き)があるからではないか、と思えることが多い。

こういう謎かけっぽい切り出しから始まることが多いのは、意識しての技巧なのでしようね。それはさて置き。筆者は「尊敬する」という形容とともに鶴見俊輔氏の一節を引用します。

 〈私の息子が愛読している『生きることの意味』の著者高史明の息子岡真史が自殺した。『生きることの意味』を読んだのは、私の息子が小学校四年生のときで、岡真史(14歳)の自殺は、その後二年たって彼が小学校六年生くらいのときだったろう。彼は動揺して私のところに来て、

「お父さん、自殺をしてもいいのか?」

とたずねた。私の答は、「してもいい。二つのときにだ。戦争にひきだされて敵を殺せと命令された場合、敵を殺したくなかったら、自殺したらいい。君は男だから、女を強姦したくなったら、その前に首をくくって死んだらいい。」   

 そのときの他に、彼と男女のことについてはなしたことがない。私は自分で、男女のことについて、こうしたらいいという自信をもっていないからだ〉(『教育再定義への試み』)

答の重さと、小学生の息子さんに即座にこの重たい答を返す鶴見氏の覚悟とに、しばしフリーズ。比喩ではなく、血を吐くような答が持つ質量に圧倒されて、身体が固まります。

こういうセンシティブな内容を、前後の文脈抜きに引用することは誤解を免れえないと知ってはおりますが、恐れず前に進む私。

わたしは、時々、学生たちに、同じ質問をしてみる。すると、回答は二つに分かれる。    

(1)難しい、といって絶句する。      

(2)少し考えて、紋切り型の回答をする。「死んじゃダメだ。生命はなにより大事だから」といったような。(中略)

でも、このときの「考える」は、ほんとうに考えている、といえるのだろうか。こういう場合の「考える」は、ただ、どこかにある正しい回答を探しているだけで、そういうのは、「考える」とはいわないのではないだろうか。

注)赤字は引用者(ふにやんま)。本来は傍点が振られております。

むむむ。そういう気がする。借り物の答を息子に返すのは嫌だなあ。

実は、この「回答」は、前の戦争中、鶴見さんが自分に対してもっていた「回答」だった。いいかえるなら、鶴見さん自身に向かってだけの「回答」だった。

鶴見さんは、自分は弱い人間だから、戦場に出て敵を殺せと命令されたり、やはり戦場で女性を前にして他の兵士たちが強姦するのを前にしたら、同じようなことをしてしまうだろうと考えていた。そうならないようにする唯一の方法は、その前に自殺してしまうことだった。だから、鶴見さんの「回答」は、「…だ」ではなく、「わたしなら…する」というものだった。

高橋氏の意図は、小林よしのり氏の『戦争論』的な議論をすることでも、西村眞悟氏(古いかな)のような発言の是非を問うことでもありません。一般的な自殺論ですらない。いずれも大事ですけれどもね。

世界からの問いに、「わたしなら、こうする」と即座に回答すること。この「回答」と、それにも増して、その速さの中に、わたしは、深い叡智を感じるのである。

ただ「速い」だけの「回答」を作ることなら、だれにでもできるだろう。          

だが、ほんとうにわたしたちが必要としているのは、そのことによって、受け取る側の人間が、自力で、どこか遠くへ行くこともできるような「回答」だ。

かーっ。やつぱり上手いな高橋源一郎氏。このあたり流石です。

そのような回答を「速く」、作り出すことのできる力、それを、「知性」と呼んでもかまわないような気が、わたしにはするのである。

別項ですが、今流行りの反知性主義については、      

わたしは、「反知性主義」という言い方の中に自然に含まれてしまう、「あんたたちは反知性だけれども、こっちは知性」というニュアンスが、どうしても好きになれないのである。 

とサラッと言い切ってしまう高橋源一郎氏。本当の知性とはこういうもんじゃね? と投げかけられた読者は、ここで深く首肯かざるを得ません。

他にも『伯父さんはルソン島に行った』      オバマさんのことば』等、読み応えのある項がふんだんに。高橋氏の意図とは無関係に使われそうな危うさすら感じます。          

これだけの内容でしかも新書ですから、気になられたかたは是非全文をご確認下さい、と結んでも無責任ではないですよね?

力量不足を「自分で読んでね」で誤魔化しつつ、それを隠さぬ私。雄々しい。

以上  ふにやんま

久々に漫画をまとめ読み

昔から懇願され続けてきました。

家人:電車で漫画を読むのだけはやめてけれ。

私:ねえオンジ、それっていけないこと?

何が駄目なのか今だにさっぱり分かりません。

ちなみに私、東スポのお子様や女性に対して不適切な紙面は、車内ではちゃんと折りたたんで人目に触れないようにする常識人なのに!当たり前か。

最近のまとめ読み。なお読み始めたら基本的に全巻読破するタイプです。

ゴールデンゴールド堀尾省太  

連載中の漫画でまだ2巻までしか出ておらず、正確には「まとめ読み」ではないのですが。気に入ったので2冊とも画像貼っちゃいました。瀬戸内に浮かぶ小島、寧島の浜辺で主人公がたまたま拾ったフクノカミ像。ただの置物かと思いきや・・・という風変わりなスタートから、2巻まではとて上手くいっています。これからどうなるのか、久しぶりに楽しみな進行中の漫画。

島民とフクノカミのビジュアルWりシーンを極力セーブして、島の日常感を壊さずに話を進めて欲しいなと個人的には思っております。あとは島の規模を正確に反映して欲しい。彼岸島が大失敗しましたからね。どんだけ大きな島だよ!淡路島でも無理だよ!みたいな破綻がないことを祈ります。島が経済的に発展していくのは既定路線でしようから、期初の規模と、成長していく際の係数に違和感がないように。その方が断然面白いはず。かなり期待しているので要望が多い私。

 

 ドラゴンヘッド望月峯太郎

古っ。1994年に連載開始当時から、読もう読もうと思いつつようやく。映画にもなりましたし、大ヒットしましたよね~。2巻までは確かに面白いし、四半世紀経った今でも目新しい設定だと思いますが、その後の展開がつまらない上に、絵がどんどん見にくくなる。結局2巻の表紙、ノブオの奇怪なビジュアルが全ての作品だったのでは? ちょっと残念でしたが、今頃文句言うのは筋違いですよね。全10巻。

 

『神様の言うとおり 弐』原作:金城宗幸、絵:藤村緋ニ

神さまの言うとおり弐(1) (週刊少年マガジンコミックス)
 

本作『弐』ですので。お間違えなきよう。『壱』にあたる本編は全5巻で一応完結しており、本作はそのサイドストーリーという位置づけですが、時間的に平行なのと、最後に『壱』と合流する構成ですので、「後編」「第二部」と言ってよいかと。出来は『弐』のほうがいいですね。仕切り直したことでゲームやシナリオの作り込みが丁寧になって、全21巻まで連載が続いたのも頷けます。最後の数巻は主要キャラの長台詞が少々重たいのですが、なんだかんだで読み切らせる力はさすが。何故かカイジシリーズを再評価したりした私。

 

『ACMA:GAME』 メーブ、恵広史

なんだよ悪魔って。デスゲーム系なんて、ひとつ読めば十分だろ。

という先入観で放置しておりましたが、意外に面白かった。「閉鎖環境下、理不尽に始まる命がけのゲームに挑む」というのは既にステレオタイプ化していて、ジャンルとしては飽和状態だと思うのですが、ゲーム内容にこのぐらい凝るとやっぱり面白い。「今時、悪の組織ってどうよ?」とか「このキャラ設定、全然使いこなせてないじゃん」とか、突っ込みどころは多分にありますが、ゲームパートの面白さが勝ります。カードとかボードとか既存ゲームのアレンジに走るのではなく、コイン隠し、銀行強盗、粘土細工といった独創的な競技を出してくるところがいい。扉絵のパロディとか、巻末の "おまけまんが" みたいなところにもセンスを感じます。なかなかの実了者と見ました。

 

週刊少年誌って人気投票とかアンケートとか、すごく競争が激しいんでしょう?長期連載になったものは、それなりのレベルを備えている訳ですよね?しかし今際の国のアリスリアルアカウント』『トモダチゲーム』(適当に思いついたものを挙げています)等々、世に氾濫するデスゲーム漫画を次々と読破するほどの時間はないし。。。GWの残りを漫画に突っ込む? では山ほど積んである活字の本はどうするの?

おじさん苦悶式。

以上 ふにやんま

『ぼぎわんが、来る』澤村伊智

『ぼぎわんが、来る』澤村伊智(2015)

ぼぎわんが、来る

ぼぎわんが、来る

 

第22回(2015年)日本ホラー大賞の大賞受賞作。ちなみに23回(2016年)は大賞が「該当作なし」でした。

この賞、それが結構多いんですよね。なにしろ栄えある第1回からいきなり大賞は「受賞作なし」ですから。最初ぐらい仕込みとかしないものかしらん。

選考のこうした厳しさが示すように、この賞の受賞作は文句無しに質が高い。まして〈大賞〉ならば鉄板です。

本作も十分に面白い。保証します。

ぼぎわんも怖いし。

作品の面白さを支えているのが、まず澤村氏自身が相当なホラーマニアであると思われること。

知見のストックが伺える部分が随所にあり、古今東西のホラー作品に通じているのが分かります。プロの読み手が、自分が読みたいものを書きました!という感じ。

次にキャラクターのひと捻り。分類上は土俗系、民俗系ホラーになると思いますが、『ぼっけえきょうてえ』三津田信三(作者が好きな作家の一人だそう)の作品との既視感を感じさせないのは、登場人物の現代的な味付けによる部分が大きいかと。

ネタバレにならない範囲で書きますが、まさかホラーでイクメンが出てくるとは。霊能者とか護符とか、まあまあベタなものも出てきますが、本作はことさらホラー好きではないというかたでも抵抗なく読める、ジャンルを超えた作品に仕上がっていると思います。

注)読んだ後で「もろホラーやんけー」「怖かったがなー」とか言わないで下さいね。本格ホラーであるのは当然で、その上でチャレンジをしているという話ですので。過去の大賞受賞作でもある『黒い家』とか、思いっきりホラーですが読まれた方は多いでしょう?あんな感じ。

で、本題です。本書の一番の推しは、宮部みゆきの選評です(澤村さんごめんなさい)

最終選考委員は超豪華で、なんと綾辻行人氏、貴志祐介氏、そして宮部みゆき氏の3名。人気、実力ともに一流どころを揃えました。凄いっ。

中でも宮部みゆきの選評は出色の出来。

本作のどこが優れているのか、ツボを外さず余さず文章化してくれていて、感嘆のひと言。この人に選ばれたならば、受賞の喜びも倍増でしょう。良かったなー澤村さん。

エピソードの進行に沿って一人称的三人称の視点人物が交代してゆく構成が、とても巧く機能していることに感心しました。

うんうん、首も折れよとばかりに頷く私。

小説的な遠近法が効いてくるので、読み手も登場人物たちと一緒に、「ぼぎわんがやってくる」恐怖を現在進行形で味わうことができます。

ダメ、もう折れた。「小説的な遠近法」については省略。

そして本作で最も印象に残る台詞、

あんなもんは呼ばなければ来ない

もキッチリと抜粋。

そう、その台詞、最高ですよね!

もう首、付け根からブラブラです(ホラーっぽい表現に傾きがちな事をお許し下さい)

冒頭でプロの読み手という表現を使いましたが、宮部氏は超一流のプロの書き手であると同時に、超一流のプロの読み手でもありました。

他の二人の選考委員も本作を大賞に推しており、満票ということで選者各位の目利きは確かなのですが(ぶん殴られるかな)、宮部氏の作家としての誠実さと言いますか、原稿用紙があれば常に最善を尽くすという姿勢には、ぼぎわん以上の凄味を感じましたね。たとえ悪っ。

1ページ弱の選評ですが、そこにたどり着くのを楽しみに読破するのも、本作の読みかたとしてお薦めかと。

やっぱり超一流は凄いっす。

以上  ふにやんま

『男たちへ』塩野七生

『男たちへ』塩野七生(1989)

かの名高いローマ人の物語(単行本で15巻、文庫本で43巻の大著)の塩野七生氏です。43冊コンプリートセットだと、ビジュアルでビビります。Amazonに画像がありませんでした。残念。なお、お察しのように読んでおりません。

私、西洋史って疎いんです。疎いなんてもんじゃなく、全然知らないと言っていいレベル。西洋史を知らないと言うことは、世界の歴史の殆どを知らないに等しいですから、文学でも宗教でも美術でも、理解に甚だ支障が出ます。肝心要のところが掴めない。

「やっぱり勉強した方がいいかな」と気づいてから、30年は放置してきました。以前にも書きましたが、かの佐藤優さんならば速攻で着手しているはず。

懺悔の値打ちもないって歌がありましたが、若いうちに勉強はちゃんとしておきましょう。命短し恋せよ乙女であります。ちなみに私、日本史も駄目でして。なんやねんチミィ。

経験にのみ学んできた愚者の事はともかく。そんな人間が塩野七生氏の著作を語るのも相当勇気が要りますよ。そこだけは買って欲しい。買えるかいっ。

本書では 28章 インテリ男はなぜセクシーでないか が引用される事が多いと思います。一冊のエッセンスが凝縮されたような秀逸な章ですが、そこは敢えて外します。手元でボールを動かして芯を外す。WBCでも有効性が立証された投球術ですね。いや、読み手にジャストミートしろって。

第43章 男が上手に年をとるために から。

戦術一。まず、自分の年齢を、いつも頭の中に刻みこんでおくこと。

から始まって十の戦術が挙げられているのですが、その中から二つ。

戦術七。優しくあること。

優しい若者を、私は若者だとは思わない。立居振舞いのやさしさを、言っているのではない。心のやさしさ、とでもいうものだ。

若者が、優しくあれるはずはないのである。すべてのことが可能だと思っている年頃は、高慢で不遜であるほうが似つかわしい。

優しくあれるようになるには、人生には不可能なこともある、とわかった年からである。自分でも他者でも、限界があることを知り、それでもなお全力をつくすのが人間とわかれば、人は自然に優しくなる。

優しさは、哀しさでもあるのだ。これにいたったとき、人間は成熟したといえる。そして、忍耐をもって、他者に対することができるようになる。

この「若者は高慢不遜たれ」というところがいいですね。不条理は世の常である、と私も平静を保ちつつ言える年になりましたが、若者にしたり顔でそんなことは言って欲しくない。

未来は全て自らの手の内にある

そう信じて疑わない存在であって欲しいと思うのです。このパート、塩野氏もかなり真面目です。

二つと言いましたよね。本章では具体的な十の戦術に続き、最後にこう締め括られています。

戦術の最後。利口ぶった女の書く、男性論なんぞは読まないこと。

うまいっ。ここで終わってもいいのですが、念押しで次章 第44章 成功する男について の項目だけ。

第一に、身体全体からえもいわれぬ明るさを漂わせる男

第二、暗黒面にばかり眼がいく人、ではない男。

第三、自らの仕事に九十パーセントの満足と、十パーセントの不満をもっている男。 

第四、ごくごく普通の常識を尊重すること。

このごくごく普通の常識を尊重、ということの解説がまた良いのです。待てよ、先に項目だけって言っちゃったかな。まあいいや。

これは、尊重することであって、自ら守れと言っているのではない。(中略)では、なぜ普通人の常識は尊重しなければならないかということだが、それは、人は誰にでも、存在理由をもつ権利があるからである。そして、しばしば、普通人が自らの存在理由を見出すのは、世間並の常識の中でしかないのだ。もしも、人生の成功者になりたければ、どんなに平凡な人間にでも、五分の魂があることを忘れるわけにはいかない。

これは、人間性というものをあたたかく見る、ということでもある。真にヒューマンな人のまわりには、灯をしたうかのように、人は自然に集まってくるものである。

あ、この人は分かってる人だ。

そう得心させるに十分な一文だと思いました。想像するに、この人の書く歴史は、英雄譚に塗り固められたものではないだろうなと。

こんど確かめてみます!と元気良く言えないのが辛い。歴史本ニガテデース(外国人風の逃げ)

この章でも結びはウイットに富んでいます。

こんなに完璧な人って何人いる?なんて聞かれそうだから、あらかじめ予防線を張っておきます。

なに、四六時中そうでなければ成功しないと言っているのではないのです。まあ、一日に十時間この調子でいられる人なら、ということにしましょう。八時間でも無理、なんていう私のような者もいるけれど、私は男ではありませんから。 

しゃちこばりがちな男の構えを見極めて、スコーンと肩透かしを喰らわすこの余裕。

本書は塩野氏の専門であるイタリア史、ローマ史に通じたかたならばもっと楽しめるはずですが、冒頭に申し上げましたとおり、私にはその部分は皆目分かりませんでした。

半分しか分からずとも、とても味わい深く読めましたので、大勢おられるであろう歴史の素養のあるかたには、是非満喫して頂きたく。こうしてお薦めする次第であります。

以上 ふにやんま

『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』森茉莉

『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』森茉莉 [編]中野翠(1994) 

ベスト・オブ・ドッキリチャンネル (ちくま文庫)

ベスト・オブ・ドッキリチャンネル (ちくま文庫)

 

周知の事かと思いますが、森茉莉氏はかの文豪、森鴎外の長女。それだけで恐れ入りましたという感じ。なにしろ「もりまり」でフルネーム一発変換が出来てしまうぐらいのかたです。

本書は1979年から1985年にかけての週刊新潮』での連載『ドッキリ・チャンネル』を、森氏の大ファンである中野翠氏が文庫本として編纂したもの。

5年半という連載期間の長さだけでも、その人気のほどが伺い知れますが、敢えて補足。文才というのはなかなか遺伝(生物学的な意味ではなく)しないのが世の常でありますが、このかたに関して言えばとんだお門違い。親の七光り云々を抜きにして、テレビ評論家としてはまさに超が付く一流。あのナンシー関氏以来の衝撃でした。消しゴム版画ばんざい。分かりにくいかな?

批評文と、戯曲に長じていたが、小説は理屈が前面に出ていすぎた点も、鴎外は三島由紀夫と共通していた。(中略)私が小説を書く時のように、書いている内に一人の男が相手の少年を嫉妬し出したり、だんだん殺意を抱くようになってくる、というような、作者が小説の中の人物に引っ張られて行く、というようなところが鴎外にも三島由紀夫にもない。彼らの小説には最初の一行を書く時に、既う(もう:引用者注)その小説の最後の一行が作者にわかっている、というようなところがある。それでは小説は読んでいて面白くないのだ。作者も、読者と一しょになって、小説のなりゆき、小説の中の人物がどんなになって行くか、ということに引っ張られてゆくのでなくては、面白くもおかしくもないのだ。それが鴎外にも三島由紀夫にも、わかっていない。これが鴎外と三島由紀夫との二人の生徒に対して呈出するモリマリ先生の忠告である。

いきなりの長文、且つテレビ批評でもなんでもない部分の引用をお許しください。だって、ここめちゃくちゃ面白くないですか?

鴎外と三島の小説にダメ出しですよ。

要は「小説は理が勝(まさ)っては面白くない」という趣旨なのだと思いますが、天国(かどうかは知りませんけど)の二人も苦笑いするしかないでしょう。

森家のご令嬢にかかっては、日本を代表する文豪も大家もかたなしのようで。

最初の一行を書く時に、もうその小説の最後の一行が作者に分かっている

というのは実に言い得て妙。正鵠を射た、鋭い批評だと感心しました。言えない。これはいろんな意味でモリマリ先生にしか言えないわ。

テレビ批評の部分は、連載の時代が時代だけに若いかたにはおそらくしんどい。頻繁に取り上げられるのは大川橋蔵竹村健一沢田研二萩原健一萩本欽一石坂浩二高峰秀子岩下志麻山口百恵といった面々。

政治家ではレーガンゴルバチョフ大平正芳など。長嶋茂雄貴乃花(もちろん先代)、立川談志なんかも割と。50歳目前の私でもギリギリです。

かろうじて分かりそうなかたを挙げるならば、田原俊彦ビートたけしB&B(知らないかたも多いかな。”がばいばあちゃん” の島田洋七と洋八の漫才コンビ)ぐらいでしょうか。

テレビ批評の難しいところで、どれだけ鋭い批評であっても読み手が当人を知らないとピンとこない。有名人のイメージというのは変遷しますので、時代性と無縁には読めないのですね。

なので幅広くお薦めできる本 という基準からは外れてしまいます。ここはナンシー関氏も同様で、とても悲しい。

後世に残るテレビ批評というのはありえないというのが厳然たる事実。そこをなんとかした中野翠は大したものです。

父・鴎外をはじめとする家族の思い出話、結婚離婚のいきさつ

は思い切って割愛したと中野翠氏は「編者あとがき」で書いていますが、氏がどうしてもカット出来なかった部分、すなわち愛おしすぎて切るに忍びなかったと思われる(ここ、完全に私の見立てですのでご注意ください)部分がたまらんのです、はい。

私は父をパッパと言っていた。

彼はそれだけではない。明治の女の子である私に、正座をさせず、ねころんでいることを奨励した。座る時には脚を横に流して座るように、教えた。そうして母に言った。(お茉莉が大きくなって洋服を着る時に、行儀よく座らせては曲った脚になる)

そういう風で、父を恋人のように(十八歳で父に死に別れるまで)思っていて、なんとなく年上の人でなくては好きになれなくなった。幸い、夫は十歳上だった。

もう、鴎外、ベタ甘。

どれだけ溺愛するんだよ!と突っ込みたくなるエピソード満載。愛娘を嫁に出すときもこうですよ。

私は髪も女中に結ってもらう。帯も一人では結べない。飯は炊けない、料理もだめ。薬鑵を水道の蛇口に近づけて水を汲んだことさえない。そういう娘なので山田と縁談があったのを幸い、父母にとって大変な安心だったのである。二十七、八、三十がらみの女中が六人もいる。それがお茉莉にとってお誂え向きであった。(中略)お茉莉という娘は、金持から乞われた機会を逃さず、そこへ遣るより仕方がない。それが父にも母にもわかって いたのである。

こちら大鴎外の証言ではなく、森茉莉氏の述懐です。なかなか冷静な自己分析。そしてこの筋金コンクリート入りのお嬢様のご婚姻は、父母の意に反して、最終的には上手くいかなかったりするんですね。だって結婚直前になって、それまで溺愛してきた娘に、急に鴎外がつれなくなったりするんですよ。

バレバレじゃん!全然子離れできてないじゃん! まあ、それは置いておきましょう。

鴎外の人間像に関心のあるかたなら、興をそそられる逸話がふんだんに出てきます。そこだけで楽しめる構成。中野翠氏、いい仕事です。

特筆すべきはこのお嬢様、明治の君世のお生まれとしては、相当に波乱万丈な人生を歩まれたにも関わらず、真っ直ぐな心根を生涯失うことがなかった。鴎外の溺愛は無駄ではなかった、ということでしょうね。

1998年のパート10、鴎外が自分の心中にある固い貝殻のようなもの森茉莉氏の表現)から生じる苦しみを、妻(大鴎外の奥様=森茉莉氏の母上ですね)に切々と語る部分。

同じく1998年のパート24吉田茂(とアイゼンハゥアー)の見せた、一国の宰相の横顔を評した部分。

いずれも素晴らしい。後者を少しだけ引きますが、抜粋部から結びの一文まで、溜息が出るほどに流麗かつ高潔な文章です。

それは、国民の運命を背負っている人の、顔であった。その顔はたとえていうと、子供の、癌であるか、そうでないかの試験を、医者がすることになっていて、その試験の結果を訊きに病院へ行く日の、父親の顔であった。私たち国民への気がかりを、あの小柄な体一身に背負っている姿を、私は見た。

稀代のエッセイストである森茉莉先生のお手並み、しかと拝見しました。

ご異論もあろうかと思いますが、

一冊読めば分かるっ。

この人は名人だ!

きっと何をいまさらなのでしょうね。ものを知らない人間は強いぞ。大事なのは自分の言葉で断言することだ! (←いい事言ってるっぽくしてみました)

ちなみに『ドッキリチャンネル』全文は、森茉莉全集』の六巻及び七巻に収められているそうです。

次は小説家、森茉莉先生の腕前を確かめなくちゃ。不遜、不遜の与謝不遜と。

以上 ふにやんま

『ひとを〈嫌う〉ということ』中島義道

『ひとを〈嫌う〉ということ」中島義道 (2003)

気になった人の本は続けて読む癖があります。前エントリで取り上げた『うるさい日本の私』に続き、 下の2冊を読んでからの

私の嫌いな10の言葉

私の嫌いな10の言葉

 

 

人生に生きる価値はない

人生に生きる価値はない

 

表題の1冊、『ひとを〈嫌う〉ということ』 これが一番面白かった。

中島氏、ご自身の家庭について『うるさい日本の私』で 実質崩壊 と一言触れていましたが、本書ではその実情を明らかにしています。人様の家庭不和に触れるのも趣味の悪い話ですので簡単に。元々、氏はウィーンに奥様と14歳のご子息を伴なって研究のために滞在しておられたのですが、

私は家から追い出され、昨年暮れにわが家の近くのホテルに移り、三カ月そこに滞在し、今年三月在外研究の期間が切れてひとりで帰国しました。その後ふたりはウィーンに留まり、時々私がウィーンを訪問したりふたりが帰国したりしますが、妻はカトリック洗礼志願者として毎日聖書と祈りの生活、そして息子は私を完全に拒否したまま顔を直視しない関係、何も言葉をかわさない関係、おたがい相手が存在しないかのように振る舞う関係が続いております。

きっつぅ。「だからこんなシニカルな本ばかり出すようになってしまったのね」ということでは全く無いのですが、この事実を知っておくと氏の著作、大いに味わいが増しますので予備知識としてご紹介しておきます。しかし身につまされるなー。

タイトルから伺えるように、中島義道氏、相当偏屈です。で、なんでこんな変な学者さんの本が気になるのか。

私も相当偏屈でした。

いやー、齢50に届こうかという年になって初めて気づきました。ありがたいことです。やっぱり本は読んだほうがいいや。

サラリーマンには同期というのがありますよね。サラリーマンに限りませんが。同期会とかがあると、私も昔は一応顔を出してました。今は全く参加しませんんが。

で、酔いがまわってくるとあちこちから聞こえてくるんですね。同期賛歌が。

「いやー、同期ってホントいいよな~」

「会社で心から気を許せるのは、同期会だけだよ」

私、そいつの顔をまじまじと見つめちゃいますもん。

こいつ正気か?って

同期クラスメートに置き換えてみましょうか。クラスには気の合うやつもいれば合わない奴もいる。ブルーハーツ風に言えば「いい奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない」(TRAIN-TRAIN)そんなところで御の字でしょう。

先生の掲げる「クラス仲良く」はお題目としては間違ってはいませんが、「クラス全員とお友達になりましょう」までいくと受け入れがたい。なんでクラスの全員と仲良くせなアカンの?そんなん、ありえへんし。

同期だって同じでしょう?同期の中には、気の合うやつもいれば合わないやつもいる。気のあうやつとだけ付き合えばいいいし、それならば同期の枠に縛られる必要なんかこれぽっちもない。

新人研修で人事部のメンバーがよく言ってました。「この繋がりは一生ものだから大事にしろよー」「縁あって集まった仲間だからな」って。違和感感じまくりでしたね。難しいプロジェクトも、自然と集まった同期の団結で一気に解決! 池井戸潤かよ。

やっぱり偏屈な私大人の階段を昇れずに死ぬのね。別にいいけど。

人脈はあるに越したことはないのがサラリーマンですが、そんな打算含みで付き合うのはまっぴらごめん。ましてや気の合わない社内の人間と、大好きなお酒を呑む時間なんて、こちとら残されちゃいないんだよ!そんなに長い人生か!と啖呵のひとつも切りたくなります。ブルーハーツ、もう1回出していいいですか?

どこでもいつも誰とでも笑顔でなんかいられない(チェインギャング)

「それでいいんだ」「それで当然なんだ」「それを受け入れて物事を考えようぜ」というのが本書の趣旨でありまして。あ、俺だけじゃないんだ、こういうものの考え方をするのって。目からうろこだいる。

「結婚式には出ないと決めている」も同じでしたね。披露宴への出席を打診されると、二人が仲良くやってるんだからいいじゃん、葬式には絶対出てやるからな、とか平気で言う私。大前研一氏も結婚式は出ないそうです。

「負け犬」という特性を他人は私にべたべた貼り付ける。私はその場合自分は「負け犬」じゃない、あるいは「負け犬」でもいいじゃないか、と自分に言い聞かせても効果はない。(中略)私は「負け犬」を自分に対して承認せざるをえない。私は自分を「負け犬」という一言でまとめあげる共謀者の役を担わざるをえないのです。このことがわからない鈍い人が多くて困ります。

「前科者!」とか「人殺し!」とか「私生児!」とか「オカマ!」とか「インポ!」とか「片端!」とか「パンパン!」とかの言葉を投げつけられた当人は、常日頃そのラベルの不当性に激しく抗議しているはずなのに、とっさに他人からこうした言葉の矢が飛んできたとき、平静ではいられない。頬は熱くなり、心臓の鼓動は速まる。こうした身体の変化をもって、自分がその言葉を引き受けていること、そしてそうした自分に羞恥心を抱いていることを承認している。つまり、頭でどう思おうと、身体全体で反応する羞恥心を通じて、こうした呼称が自分に貼られる正当性を承認しているのです。それがまったく不当であると感じているのなら、生じるのは怒りだけであって、羞恥心ではないはずですから。

文化的、歴史的に「観念」として伝承されていく嫌悪感がいかに危険で抵抗し難く、個人の領域では対処しづらいかを語った部分です。最近では最も唸らされた一文でした。

「性格を変えて楽しく充実した人生を」みたいな軽薄な本とはちょっと違いますので、ご注意ください。結構骨がありますよ。

以上 ふにやんま