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ふにやんま ー 世界の小所低所からー

http://funiyanma.hatenablog.com/  

朝日新聞って凄い

こちらが一昨年、2015年10月の私のエントリ。

こちらが朝日新聞様の昨年、2016年9月の記事。デジタル版です。

大野択生様、と。

以上 ふにやんま

『ひとを〈嫌う〉ということ』中島義道

読書 人生観

『ひとを〈嫌う〉ということ」中島義道 (2003)

気になった人の本は続けて読む癖があります。前エントリで取り上げた『うるさい日本の私』に続き、 下の2冊を読んでからの

私の嫌いな10の言葉

私の嫌いな10の言葉

 

 

人生に生きる価値はない

人生に生きる価値はない

 

表題の1冊、『ひとを〈嫌う〉ということ』 これが一番面白かった。

中島氏、ご自身の家庭について『うるさい日本の私』で 実質崩壊 と一言触れていましたが、本書ではその実情を明らかにしています。人様の家庭不和に触れるのも趣味の悪い話ですので簡単に。元々、氏はウィーンに奥様と14歳のご子息を伴なって研究のために滞在しておられたのですが、

私は家から追い出され、昨年暮れにわが家の近くのホテルに移り、三カ月そこに滞在し、今年三月在外研究の期間が切れてひとりで帰国しました。その後ふたりはウィーンに留まり、時々私がウィーンを訪問したりふたりが帰国したりしますが、妻はカトリック洗礼志願者として毎日聖書と祈りの生活、そして息子は私を完全に拒否したまま顔を直視しない関係、何も言葉をかわさない関係、おたがい相手が存在しないかのように振る舞う関係が続いております。

きっつぅ。「だからこんなシニカルな本ばかり出すようになってしまったのね」ということでは全く無いのですが、この事実を知っておくと氏の著作、大いに味わいが増しますので予備知識としてご紹介しておきます。しかし身につまされるなー。

タイトルから伺えるように、中島義道氏、相当偏屈です。で、なんでこんな変な学者さんの本が気になるのか。

私も相当偏屈でした。

いやー、齢50に届こうかという年になって初めて気づきました。ありがたいことです。やっぱり本は読んだほうがいいや。

サラリーマンには同期というのがありますよね。サラリーマンに限りませんが。同期会とかがあると、私も昔は一応顔を出してました。今は全く参加しませんんが。

で、酔いがまわってくるとあちこちから聞こえてくるんですね。同期賛歌が。

「いやー、同期ってホントいいよな~」

「会社で心から気を許せるのは、同期会だけだよ」

私、そいつの顔をまじまじと見つめちゃいますもん。

こいつ正気か?って

同期クラスメートに置き換えてみましょうか。クラスには気の合うやつもいれば合わない奴もいる。ブルーハーツ風に言えば「いい奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない」(TRAIN-TRAIN)そんなところで御の字でしょう。

先生の掲げる「クラス仲良く」はお題目としては間違ってはいませんが、「クラス全員とお友達になりましょう」までいくと受け入れがたい。なんでクラスの全員と仲良くせなアカンの?そんなん、ありえへんし。

同期だって同じでしょう?同期の中には、気の合うやつもいれば合わないやつもいる。気のあうやつとだけ付き合えばいいいし、それならば同期の枠に縛られる必要なんかこれぽっちもない。

新人研修で人事部のメンバーがよく言ってました。「この繋がりは一生ものだから大事にしろよー」「縁あって集まった仲間だからな」って。違和感感じまくりでしたね。難しいプロジェクトも、自然と集まった同期の団結で一気に解決! 池井戸潤かよ。

やっぱり偏屈な私大人の階段を昇れずに死ぬのね。別にいいけど。

人脈はあるに越したことはないのがサラリーマンですが、そんな打算含みで付き合うのはまっぴらごめん。ましてや気の合わない社内の人間と、大好きなお酒を呑む時間なんて、こちとら残されちゃいないんだよ!そんなに長い人生か!と啖呵のひとつも切りたくなります。ブルーハーツ、もう1回出していいいですか?

どこでもいつも誰とでも笑顔でなんかいられない(チェインギャング)

「それでいいんだ」「それで当然なんだ」「それを受け入れて物事を考えようぜ」というのが本書の趣旨でありまして。あ、俺だけじゃないんだ、こういうものの考え方をするのって。目からうろこだいる。

「結婚式には出ないと決めている」も同じでしたね。披露宴への出席を打診されると、二人が仲良くやってるんだからいいじゃん、葬式には絶対出てやるからな、とか平気で言う私。大前研一氏も結婚式は出ないそうです。

「負け犬」という特性を他人は私にべたべた貼り付ける。私はその場合自分は「負け犬」じゃない、あるいは「負け犬」でもいいじゃないか、と自分に言い聞かせても効果はない。(中略)私は「負け犬」を自分に対して承認せざるをえない。私は自分を「負け犬」という一言でまとめあげる共謀者の役を担わざるをえないのです。このことがわからない鈍い人が多くて困ります。

「前科者!」とか「人殺し!」とか「私生児!」とか「オカマ!」とか「インポ!」とか「片端!」とか「パンパン!」とかの言葉を投げつけられた当人は、常日頃そのラベルの不当性に激しく抗議しているはずなのに、とっさに他人からこうした言葉の矢が飛んできたとき、平静ではいられない。頬は熱くなり、心臓の鼓動は速まる。こうした身体の変化をもって、自分がその言葉を引き受けていること、そしてそうした自分に羞恥心を抱いていることを承認している。つまり、頭でどう思おうと、身体全体で反応する羞恥心を通じて、こうした呼称が自分に貼られる正当性を承認しているのです。それがまったく不当であると感じているのなら、生じるのは怒りだけであって、羞恥心ではないはずですから。

文化的、歴史的に「観念」として伝承されていく嫌悪感がいかに危険で抵抗し難く、個人の領域では対処しづらいかを語った部分です。最近では最も唸らされた一文でした。

「性格を変えて楽しく充実した人生を」みたいな軽薄な本とはちょっと違いますので、ご注意ください。結構骨がありますよ。

以上 ふにやんま

『うるさい日本の私』中島義道

読書 人生観

『うるさい日本の私』中島義道(1996) 

うるさい日本の私―「音漬け社会」との果てしなき戦い

うるさい日本の私―「音漬け社会」との果てしなき戦い

 

日本の街はうるさい。

あらゆるスピーカー音の発生主に対して、敢然と抗議する。しかも絶対にあきらめないと公言して憚らない闘う哲学者中島義道氏がブレークした本です。ちなみに本業はドイツ哲学だそう。

「うるさい日本」の「うるさい私」

どちらとも取れる、なかなか洒脱なタイトルですね。

現代日本では、われわれは一歩家を出るや否や、スピーカーによる挨拶、注意、提言、懇願の弾丸を浴びねばならない。

家にいても、焼き芋屋、竿竹屋にたたき起こされ、消防署や警察署の広報車に脳天をぶち割られる。

私は買い物に行くことができない。ほとんどすべての店はすさまじい音楽をかけており、エスカレーターの注意、禁煙の呼びかけ、催し物の案内、呼び出し・・・と地獄そのものである。

私も公共スペースの過剰な音声案内には辟易するタチですので、大いに共感しました。まあ、ここまでの闘士っぷりは発揮できませんが。。。

作者の言う言葉の氾濫と空転機械音地獄浴びるような轟音との闘いの模様が大変面白い。江ノ島海岸で闘い、JR各社と闘い、美術館のハンドスピーカー案内と闘い、名所名刹と闘う。挙げていけばキリがありません。

新宿駅内でも、東口と西口を結ぶ通路で二カ所も毎日ビューカードの宣伝放送をしている。まず、いつものように、マイクをにぎる男に近づきその顔をめがけて「ウルサイ!」とどなる。一瞬何のことかとひるんだすきに、「ここは駅であり、公共の場所であるのに・・・・」と喋りつづける。それからグリーンカウンターに訴え、音量を下げさせる約束をする。だが、そんな約束など守るわけはない。

次のとき、また見つけると「ウルサイ!」とどなる。

「いつものように」っていうのが既に半端ないですね。

持ち歩いている騒音計を鞄の中から取り出して「さあ、喋ってみなさいよ。何デシベルか計ってみるから。結果を環境庁に報告しますから」と騒音計のマイクを向けると、喋らない。その日はそれで終わったが、次のときソッと後ろから行ってスピーカーのスイッチを消してしまった。だが、暗騒音の高い新宿駅構内のこと、マイクをにぎり酔いしれるように喋りつづけるように喋りつづける彼は気がつかない。

ははは。笑い事じゃありませんが。でも面白い。

バスの車内放送。いかに懇切丁寧に、微に入り細を穿って乗客の安全に配慮したアナウンスが、繰り返し繰り返し流れることか。ご存じないかたはおられないと思いますので、そこは省略。

車内をよく観察してみよう。立っている人は全員つり革や手すりにつかまっている。でないと、揺れる車内で身体を安定させることができないことを知っているからである。そして、曲がり角などでは、それまで漠然とつり革に手をやっていた人はギュッとにぎりしめる。「走行中」でも自分の降りる停留所が近づくと、車内の前のほうに走ってゆく人がいる。「走行中」でも、後ろの空いた席にずれる人がいる。だが、運転手は注意しない。降りるさいは、みな足元を慎重に確認して降りている。

つまり、一方で放送がなくとも人々は最低の身の安全を承知しており、他方で放送があるにもかかわらず、バス車内で人々は「おやめください」と言われる行為をくりかえしているのだ。車内放送は、危険を防止するという実効はないのである。

そう、実効性のないアナウンス が氾濫している現状はおかしい、という著者の主張は間違っていないはずなんです。

全路線の乗換案内や、乗換先路線の切符の車内販売なんて、その情報を必要とする人の存在すら確かに怪しい。観光シーズンならまだしも、通勤や通学でほぼ決まった乗客しか乗っていないのに、毎日延々と流される録音テープ。絶対におかしいでしょ。

それを「万が一にも事故があったらいけないから」「事故が起きた時に、回避義務云々で責任を問われたくないから」という、極めて日本的な配慮が覆い隠してしまっている。過去の事故例とか発生率とか関係ないんですね。待っているのは「お客様に、もしものことがあってはいけませんから」という極め台詞。

今ならばジョルダンGoogle Mapsがあるじゃないですか」と言っても、きつと「いやいや、スマホをお持ちでないかた、視覚が不自由なかた、ご高齢のかたといったお客様もおられますから」って返されるんでしょうねー。

弱者への配慮って、そういうことじゃないと思うんだけどなぁ。

困った人がいれば聞いてくるでしょ。その理屈が通じない。

この「困ったら聞いてくるだろう」が、なぜ社会の前提として通じないのか。本書後半は、笑える前半とは打って変わって、硬派な日本人論が展開されます。

ウチの周りだけ来なければ、その損害分はお支払いします

撃退の為に屑鉄屋に一万円、焼き芋屋に三千円を払う奇特なだけの人じゃありませんでした。もっとも自宅が職場である者として、互いの営業を妨害しない為のきちんとした交渉の結果なのですが。話が逸れてますね。

本書では出てきませんが、最近忖度という言葉がよく使われます。相手の気持ちや立場をおもんばかり、先回りして動いてあげることは、日本古来の美徳とされてきました。

しかしながら、行き過ぎた忖度のはびこる社会は、言葉によるコミュニケーションを否定する社会に繋がっている。

これがイカンのだと。

音漬け社会の元凶は、日本社会に充ち満ちた強い同調圧力だと、筆者は看破しています。

「自分がされたらイヤなことは他人にしてはいけない」正論ですね。

この正論が「自分がされてイヤでないことは、他人にしても構わない」「自分がされて嬉しいことは、他人も嬉しいに違いない」といった間違った飛躍をしているのが今の日本社会だ、というのが筆者の主張です。

マジョリティの暴力

 これが曲者なんだよと。

マジィリティはおたがいにこのルールに従って、注意しあわず、議論をしあわず、駆け寄って助け合わず、質問をしあわない。(中略)すべて放送がしなければならないことになる。

そして、「いじめ」は、まさにこうしたマジョリティの暴力が支配する社会そのものが生み出したものである。みんな同じ感受性をもっていると妄信しているから、そこから外れた感受性をもつーーー私のような音の氾濫に苦しむーーー者は徹底的に救われない。「ほとんどの人は苦しくない」という暴力的論法によって無残に切り捨てられるのである。

他人を自分の投影と捉えず、自分とは「異質のもの」として認識する。生徒に自分の言葉で決して「語らせようとしない」学校教育の在り方を改める。筆者の提言にはなるほど!と唸らせるものがあるのですが、何と言っても本書結びの十ニ条(筆者曰く、まだまだ挙げられるそうですが)が傑作です。少しだけ抜粋。

一、つねに自分の視点を忘れず、いかに多くの人が反対しようと「私は~したい」「私は~したくない」と一度は語ってみる。その後(場合によって)全体に従う。

三、なるべく他人の発した言葉の裏に隠された感情、思惑、意図を探ることをせず、あえて文字どおりの意味をとらえるようにする。「あの人どういうつもりでこんな言葉を吐いたのだろう」とクヨクヨ考えることをやめる。

十二、相手を傷つけるから、あるいは心配かけるから言わない、という態度をなるべくやめる。「どうした、顔色悪いよ」と親に言われたら、「なんでもないよ」と答えるのではなく、「きょう、学校でカンニングしてつかまった」と答える。

何ごとにつけ「察し」が悪くなろう、という筆者の主張には大いに賛同しました。しましたので、こういう時は避けるであろう「オチ」の十二条目も引用しちゃいました。

大いにお薦めの一冊。勿論、文字どおりに捉えて頂いて結構です。

以上 ふにやんま

『1984年のUWF』柳澤健 自分的に最終回-70億の鏡-

スポーツ 読書

すっかり更新を怠っておりました。怠け者には福があるっ。

2/3(金)にAmazonから配信されて、すぐにアタマから読み直しました。単行本向けに結構加筆されていましたので、買って良かったかなと。

『Number』と両方読み比べる物好きもあんまりいないと思いますが、でも殆どの写真は単行本では見れませんからね。

1984年のUWF (文春e-book)

1984年のUWF (文春e-book)

 

タイトルに最終回と付けたのは、長きに渡って楽しませてくれた本連載の発刊にあたり、プロレスもののエントリには一旦区切りを付けようという意思表明でもあります。とか言いながら、次に読もうとしているのは 

1964年のジャイアント馬場

1964年のジャイアント馬場

 

だったりするのですが。

業が深いのう、プロレス。ぬはは。

突然ですが、自分では

『70億の鏡』

と名付けている空想上の道具がありまして。この鏡、ある種の質問に対しては全知全能で答えてくれる訳です。ドラえもんひみつ道具的な感じですね。

「世界で一番、野球の素質を持っているのはだーれ?」とか「ではサッカーは?」とか囲碁は?」とか。

そうすると、世界中の生きた人間の中から、バシバシ選んで鏡に映してくれる。略歴付きで。

存命中の人間に限定されるのは、単に死んだ人間では面白くないからであって、サーバーの負荷とか関係ありませんので。何故か競技に限定されているのかも同じ理由です。

「マジかよ!やっぱり大谷翔平が野球に出逢ったのって、神の配剤だったんだ!」とか、囲碁の天才ってジンバブエ人かよ!絶対宝の持ち腐れじゃん!死ぬまで碁石見ねーよ!」とか、「サッカー、よりによってアルプスの羊飼いで爺さんかよ!年齢的に取り返しつかねーじゃん!もしかしてペーター?」とか。相当楽しめそうでしょう?

スポーツの場合、世界一の素質の持ち主は、現役ないし引退した選手であるケースが意外に多いと思うんですよね。ヒトは出会うべくして運命と出会うもの、かな。

そしてプロレスラーの場合、鏡に映るのは我らが佐山聡先輩だと確信しております。結局そこかい。すいません、最終回なんでお許しを。次から馬場さんを褒めます。嘘ぴょん。

佐山聡は身体能力の化け物である。

TBS系列のドキュメンタリー番組『マイスポーツ』が、全盛期のタイガーマスクの体力テストを行ったことがあった。100m走12秒7、背筋力293kg、総合脚力はアルペンスキー日本代表の平均を上回る360ワット。全身反応時間は陸上短距離日本代表の平均を上回り、垂直跳びは走り高跳び日本代表の平均を超えた。

多少盛ってるんじゃないの?とかいう邪推は置いときまして。

昔、TVで新日の練習風景を映していて、カメラの前のおふざけですね。腕立て伏せから手をポンと床から離して、身体が宙に浮いている間に何回手を叩けるかという遊びをレスラー同士でやっていたと。

その時、パチパチと手を叩きながら、そのまま起き上がってしまったのが佐山だったと記憶しています(間違っていたらすいません。若き日の山田恵一とか一緒だったような・・・時代考証的にあってますかね?)。身体をまっすぐ伸ばしたままですよ。ドヒャッと思いましたもん。レスラーすげえって。

プロレスラーの価値は、スペックだけで測れるようなものではないのですが、佐山の身体能力にはやはり目を見張るものがあったんだと。個人的にはさもありなんという思いでしたね。

 前田日明は、佐山の身体能力は超人的だったと評している。

《ひとりのアスリートとして見ると、たぶん俺が人生で見た人の中で、一番運動神経がいいですね。世界中、ロシアとか全部を含めて。生まれながらの運動神経に関してはとんでもないものを持っている。スポーツならどこ行っても成功したでしょうね、あの人はね。天才的なものがありました。》

うんうん。盟友、小林邦明氏にも登場してもらいましょう。

タイガーマスクが入場する時に、エプロンからトップロープにひょいっと一気に跳び乗るでしょ?あれができるレスラーは、ほかにひとりもいないんですよ、いまだに。

「いや、〇〇も出来るし」「俺見たし」みたいな反論は的外れだと断言しておきます。

小林邦明(必ずフルネームで呼んでしまうのは私だけ?)の言いたいところは違うんですよ。コーナーポストに一発で跳び乗れるレスラーは他にもいるかも知れない。でも立ち居振る舞いというか、 全ての所作が美しく、観客を魅了する才能に溢れたプロレスラーは古今東西佐山聡だけなんだと。

勝手に小林邦明の言葉を翻訳しまくる俺、ナイス。一人称、いつの間にかオレだし。

前にも紹介したことがありますが、佐山の天才が光る動画を、最終回にもう一度エントリしておきたい。止めないでっ。


初代タイガーマスクの凄すぎるミサイルキック

ミサイルキックはもちろん凄いし、その前のドロップキックの 打点の高さとか、目を奪われるシーンが前後に多々ありますが、注目頂きたいのは動画53秒のあたり。佐山がコーナーポスト付近のトップロープに跳び乗って、ミサイルキックに踏み出す際の動きです。よく見てくださいね。跳び乗る跳び出す、が連続していますよね? タイミングとしては「ワン、ツー」の2拍。

これ、ありえないでしょう?

着地(ロープだけど)と同時に跳べって言ってるようなもんですよ。力学の法則に反してるし。

並のプロレスラーならば、①跳び乗る②溜める(膝をクッションにして沈む)③跳び出す、の「ワン、ツー、スリー」になるはず。仮にほぼ2拍でジャンプ出来たとしても、ロープに跳び乗ると同時に膝を折って、腰を沈ませてから、手を大きくスイングさせて跳び出すと思います。説明が分かり辛くてすいません。

膝のクッションを使い切らず、遊びを残してロープに跳び乗って、わずかなロープの反動と全身のバネを使って跳び出しているんだよ。

解説は出来ますよ。動画を見てからなら。

でも、真似は出来ないでしょう。誰かに再現しろって言っても、このレベルでは絶対無理。だって尋常じゃないことにすら気付きませんもん。自然過ぎて。天才佐山、恐るべし。

繰り返しになりますが、超人的な身体能力や、軽業的な跳び技だけが佐山のプロレスラーとしての才能を物語るものではありません。

世界のプロレス史に必ずや残るであろう屈指のタレント(Giftedと同義のほうで)が、実はプロレスが好きではなかった。自分が編み出した、自分にしか作れなかったファイトスタイルに、何の愛着も持っていなかった

UWFの長い系譜の中で、私がいちばん惹かれるのがこの皮肉です。プロレスラーとして『70億の鏡』に映るべき男が、実はプロレスを愛していなかったなんて!知ってたけど。神様って意地悪。

佐山もまた「タイガーマスクは裏切れない」という。

「道を歩いていると、45歳から50歳くらいの人が僕を見て、『佐山さん、やっと会えました!』って泣いちゃうんです。僕自身は過去に執着する人間ではないんですけど、泣かれちゃった以上は、タイガーマスクの雰囲気を出さないといけない。言われた瞬間にパッと変えるのは、結構キツいですけどね(笑)」(佐山聡

佐山先輩、人柄が現れてますね。

史上最高のレスラーのファイトは、かつてかくも深く少年達の心を打ったのです。佐山先輩がどう総括しようと、それだけは揺るがない真実。

私もきっと泣く。

以上 ふにやんま

『1984年のUWF』柳澤健 第25回「バーリ・トゥード」

スポーツ 読書

1984年のUWF柳澤健 第25回「バーリ・トゥード」 

Number(ナンバー)917・918号[雑誌]

Number(ナンバー)917・918号[雑誌]

 

単行本が発売になりまして、早速Kindleで予約購入しました。佐山タイガーの表紙が素敵。そうくるか。

1984年のUWF (文春e-book)

1984年のUWF (文春e-book)

 

この期に及んで『Number』にあわせたエントリに意味があるのか?という疑問も湧きましたが、とりあえず続きを。Kindle版は2月3日配信だそうで、まだ届いておりません。あしからず。

単行本を読んでからでは遅いので、今のうちにあえて本連載への不満(というか要望)を挙げるとするならば、

最大の当事者である、UWF主要選手へのインタビューが全くない。

証言のソースが取りやすいところに限られている。ターザンとか当時の若手クラス、それもUWFの外郭団体みたいなところばかり。

◉これは読者の誰も知らなかったはず!という驚愕レベルの新事実が出てこない。

といったあたりでしょうか。思うに、

①連載開始前から当て込んで、唾をつけていたインタビュー先が土壇場でことごとくポシャった。

けれども連載は既に決まっており、見切り発車せざるを得なかった。

といった複雑な裏事情があるのではないかと。完全に憶測ですけどね。憶測に下線引くなって。

今回のテーマは、タイトルから分かるように「バーリ・トゥード」。

総合格闘技の世界に、UWFが先駆者として多大な影響を与えたというのは柳澤氏の一貫した解釈ですし、私も完全に同意します。UWFが存在したことのまさに歴史的な意義として、こうして取り上げてもらえる事には大いに満足しています。前置きが長くなりました。

今回の主人公である中井祐樹選手は修斗出身で、佐山にとっては直弟子にあたりますから、UWFの本流にごくごく近しい存在。連載が始まるまで、中井祐樹選手の名前すら知らなかった私ですが、今回の内容に興味を惹かれて、いくつか動画を見ました。

こんなのとか。 

Giant slayer!!! Yuki Nakai - 3 fights in 1 night!! (Gets blinded for life) (Vale Tudo Japan) - YouTube

こんなのとか。

閲覧注意!エンセン井上対ジェラルド・ゴルドー 不穏試合 - YouTube 

1995年「バーリ・トゥード・ジャパン95」

この大会で中井選手が生涯背負うことになったダメージは、皆さんご承知の通りです。動画のタイトルを借りれば、

Gets blinded for life

心底お気の毒だと思いますし、感覚器に不可逆的なダメージを与えたゴルドー選手の行為は決して是認できません。バーリ・トゥードのルールを世界中が模索していた、草創期の試合だった事も中井選手にとって大きな不運でした。

ただ、いかに初期の事件とは言え、バーリ・トゥードはやっぱりバーリ・トゥードなんですよね。突き詰めれば命のやり取り。いくら急所への攻撃と目潰しは反則と言っても、そんなのあくまで紳士協定で、土台ムリがあるんじゃないのという話です。危険にさらされ、恐怖に駆られればルールもへったくれも無いのが人間というものでしょう? 中井選手がゴルドー戦で何のアピールもせず、試合を続行したのは始めからその覚悟があったからだと思うんですよね。決して想定していなかった訳ではないと。

ことの本質は、実はゴルドー選手の個人的な資質うんぬんとは無関係です。サミングを仕掛けるという事は、相手がやり返してきても文句を言えない状況に自分を追い込む訳ですよ。本人が意図するせざるに関わらず。ベテランのゴルドー選手が、それを分かっていなかったとは到底思えない。

この試合、ゴルドー選手にはそれだけの自信があったということでしょう。短い動画からは判断しにくいですが、ゴルドー選手、繰り返しサミングしていると見ます。コーナーにガブられて、中井選手の頭を抱え込みながら吊っているシーンでも、死角になった右手で絶対やってますね。決して本連載にあるような、開始30秒だけの話ではない。

何度もやっているほうが、ずっと悪質やんか!

私は逆だと思います。ゴルドー選手は何度も警告した。それを中井選手が再三に渡って無視した。この試合で中井選手が負ったダメージは、その点においてはアクシデントとは呼べない、起こるべくして起こった結果ではないかと。

「私は男らしく堂々と戦いたかったが、彼は私にくっついたまま離れようとはしなかった。私はレフェリーに『この状態をなんとかしろ。さもないと俺はこいつを殺すぞ』と言った。

フラストレーションがたまった私は、ナカイの目に指を入れた。私は負けるのが嫌いだから、リング上ではクレイジーになるんだ。だが、ナカイはタップしなかった」(ジェラルド・ゴルドー

ゴルドー選手と言えば、勝敗についての事前の取り決め(ブックというやつですね)だけは守る、ビジネスにおいてはプロフェッショナルな格闘家のはず。いかに同業者の評判が悪かろうと、理性を失って自分がコントロール出来なくなるタイプだとは思えないんですよね。本人のコメントとはかなり異なりますが、あれは商売用ではないかと疑っております。

中井選手のファンからは怒られそうですが、動画を見た限りで言うと、私の中ではこの試合、ゴルドー選手の判定勝ちですね。

どちらが強いのか? 

明らかにゴルドー選手のほうでしょう。リングを引き上げていく、ゴルドー選手の憮然とした表情が語ってますもん。

お前とは付き合ってらんねーよ!と。

バーリ・トゥードって言ったって日本だろう? いくらブック無しだと言っても、そこまでガチでやるこたぁねえじゃないか。てめぇの自業自得だからな!

「おイタが過ぎる」とまでは言わないでしょうが、ゴルドー選手にしてみればそんな感じの試合だったのではないかと。

勿論、千載一遇のチャンスに全身全霊を懸け、3試合を戦い抜いた中井選手の闘志には最大級の賛辞を送りたい。でも、前途有望な若者が、このバーリ・トゥードの一夜で得たものと失ったものを比べると、その落差に愕然とせざるを得ません。ファイターとして、まだまだ輝かしい未来が待っていたはずの若者だというのに。

だから嫌いなんですよ。バーリ・トゥードなんか。

こんなのエンターテインメントでもなければ、スポーツでも何でもない。公衆の面前で興行として披露してはイカん種類のものです。カネを貰って、本人達は好きでやってるんだからいいじゃないかと言うのなら、アングラでやってください。PPVの世界でも、コンテンツとしては完全に下火なんでしょう? 当然です。

まず、リアルファイトとバーリ・トゥードを混同してはいけないと思うんですよ。マウントとかパウンドとか、さすがの佐山もこの時期はブレましたね。修斗が自ら掲げたスポーツ性から、どんどん遠ざかることに気付かなかった。

どちらが強いかを、バーリ・トゥードで決めなければいけない必然性なんてどこにもないんですから。

もっと刺激が欲しい、もっと残酷なものが見たい。そんな観客の要求に応えていたら、行き着くところは格闘技でも何でもなくなります。聞いてみたらいい。オクタゴンにゴリラと人間でも入れたら満足ですか?って。

右目の視力は、ついに戻らなかった。

片眼を失明した中井祐樹が、選手生活を続けることは到底不可能だった。

まだ24歳だった。

後味が悪いにも程があります。やったもん勝ちを責められないような試合なんて、試合とは呼べませんよね。そんなの野っ原でやってくれって。もう1回言います。

だから嫌いなんですよ。バーリ・トゥードなんか。

※ 直感ですが、動画の2つめはガチをdisguiseしたブックでしょう? こんなのは好き。

以上  ふにやんま

『1984年のUWF』柳澤健 第24回「総合格闘技の夢」

スポーツ 読書

 『1984年のUWF柳澤健 第24回「総合格闘技の夢」  

Number(ナンバー)916号[雑誌]

Number(ナンバー)916号[雑誌]

 

なんか繋がりが悪いなと思ったら、第23回「崩壊」が間にあるようです。雑誌『Number』本体の番号は抜けていないので、別冊か増刊かで掲載があるということでしょう。まあいいや。どうせ単行本になったら買うし。初見の内容が残っていたほうが楽しいし。

ということで1回分跳びます。申し訳ありません。

推測ですが、前回「崩壊」は新生UWF末期の金銭的なトラブルが中心だったようです。いきなり前田日明「5か月間の出場停止」が出てくるので、ポカンとしてしまいました。たしか神社長と前田が揉めて、マスコミに前田が内紛をブチまけたために、会社批判ということで前田が会社から出場停止処分を受けて怒り狂った、という経緯のはず。

しかしプロレス団体というのは、ファイトスタイルやポリシーといったイデオロギー的な衝突で解散することは絶対にありませんね。

まずお金。必ずお金。ひたすらお金

確かにレスラー側も悪いっちゃ悪いんですよ。フロントを擁護すると、基本的にプロレスラー(当時の。今は知りません)というのは金銭感覚が一般人と全く違う上に、社会常識が無い。売掛金・買掛金の概念なんか全く無いので、興行で入ってくる日銭を見て錯覚するんですね。すっげー儲かってんじゃん!と。

会社経営にはいろんな経費というものが伴うし、特に興行の世界では収入・支出の管理が極めて重要で、チケットの売り上げを鷲掴みにして持ち出されたら、ボクらとっても困るんです!(大仁田のことです)という簡単なことが分からない。

まあ、分かるようなら最初からプロレスラーになんてならないし、なったとしてもすぐ辞めてしまうでしょうけどね。みんながみんな、ライフプラン上の一通過点としてプロレスを認識していた節がある(私見です)馳浩 元大臣のようであっても、それはそれでファンとしてはつまらんのですが。

12月10日、UWF選手会は渋谷で記者会見を開き、翌年3月の旗揚げを目指して新会社を設立することと、日本衛星放送(WOWOW)がUWF選手会との契約を希望していることを明かにした。放映権料は年間5億円。 

歴史に残る「前田さん!上がってきてください」発言があった松本大会の直後、1990年12月時点では、UWFにはまだこんなに目があったんですね。WOWOWスポーツコンテンツの目玉ですよ。今なら考えられない好条件。

ここで一枚岩になって頑張ればいいのに、というのはあくまで一般人の考えで、プロレスラーは決してそうはなりません。

自分たちが血を流して、命がけでファイトしているからこそ、お金が入ってくる。

と考えている皆さんですから、

大金が入ってくるならば、その管理はフロントではなくレスラー主導でなされて然るべき。

とうことに必ずなるんですね。彼らのアタマの中では。プロレスラーだもの。みつを。

とにかく自分がエースであり、王様であり、絶対君主でないと気が済まない。まっとうな金銭感覚を持って、堅実に(相対的にですよ)現役時代を過ごせば、相当な蓄財も余生の安泰も、十分に実現可能なはずなんですが。そんなタイプはほとんどいません。

猪木が社長時代に残した借金を黙って完済し、自らの社長就任のあかつきには簿記まで習ったという坂口征二が輝いて見えます。実家は床屋さんらしいですね。きっと親御さんが堅実にお育てになったのでしょう。息子は芸能人だけど。

団体を越えて馬場にも信頼厚かった坂口征二。猪木の引退時(どの引退の事やら)には、言い値で退職金を用意したというのもまんざら嘘ではなさそう。いかん、UWFからどんどん離れていく。。。

年が明けて1月4日、UWFの選手全員を前田が集めた場で。のちにパンクラス社長となる尾崎允実氏の証言。

「前田は自分がUWFの社長になり、自分に絶対服従する人間をフロントに入れて、神と鈴木の代わりにするつもりだった 」

まあ、当然そう考えるでしょうね。エースですから。

意見を求められた私は『せっかくWOWOWが5億円を出してくれるんだから、ひとつにまとまったほうがいい』と言いました。

極めて常識的なアドバイス。しかし、違う絵を描き始めている奴が必ずいるのがプロレスの世界。

反論は出なかったけど、不服そうな顔をしているヤツはいましたね。宮戸と安生(洋二)、特に宮戸です。

宮戸は、神社長と鈴木専務が去ったあとのUWFを自分で仕切ろうと考えていた。複数の証言から、私はそう感じていました。

既に火種はあったんだと。宮戸ごとき(失礼)にも、色々吹き込む輩がいたんでしょう。

それでも、宮戸は前田に面と向かって文句を言う事はできず、結局、前田主導下で一致団結することが決まった。

上手くいくと思います?思いませんよね。アキラ兄さんですよ、あなた。

 話し合いが終わった翌日、前田から私のところに電話が入ったんです。

『俺は納得がいかない。一致団結していない。特に宮戸と安生が』と怒っていました。(中略)

私は前田に言いました。『もう結論は出たんだから、これ以上何もしないほうがいいよ』と。

でも、前田は私の忠告を聞かず、自分のマンションにもう一度選手たちを集めたんです。

その時歴史が動いた

アキラ兄さんが、下っ端の宮戸・安生ごときに反抗的な態度を取られて我慢できるはずもなく。自分が新・新生UWFの実権を完全に握ってから、宮戸や安生なんか干しちゃえばいいじゃんなどという、チンケな策略に決して思いが至らないのが、我らがアキラ兄さんであります。直情径行。みんな、そこが好きなんですけどね。 

あとは皆さんご承知のとおり。フェイクか本気か知りませんが(本連載だと前田のブラフ説を採用しています)前田が皆の前で「俺を信用できないならUWFは解散だ」とブチ切れて、取り返しのつかないことになってしまう。 前田は再度の話し合いの場を作ろうと模索しますが、各自がバラバラに動き始めて時すでに遅し。選手達の気持ちが、前田から既に離れていた証拠でしょう。

I'm all alone.

まさにひとりぼっちになってしまった前田日明クリス・ドールマンへの電話で漏らしたというこのひと言を、本当ならばタイトルにして欲しいところですが、実は今回、紙面の三分の二がリングスについてなんですね。欲しいなあ、前田日明のインタビュー。

リアル「グラップラー平直之の証言から。

僕がリングスでやった試合は全部ガチです。前田さんには感謝しかない。外部は八百長だの何だのと言うけど、前田さんがプロレスで集客してくれたからこそ、僕たちは大勢のお客さんの前で格闘技の試合ができたんです。

前田さんは格闘技が大好き。でもヒザが悪くてガチはもう無理だった。だから、いずれ立場がなくなっちゃうだろうな、と。全部こっち(リアルファイト)に変わるからです。 

WOWOWの支援を得て、UWFインターや藤原組よりも好スタートを切ったリングス。ヴォルク・ハン正道会館勢(佐竹雅昭角田信朗といった新たなスターを生んだと言っても、結局は前田人気の一本かぶり。前田の衰えと同時進行での人気の衰退は、旧来のプロレス団体となんら変わらないものでした。

それは仮に、UFCPRIDEK-1のような総合格闘技の新たな流れが無かったとしても、やはり不可避的なものだったと思います。

残念ながら、リングス以降の前田のファイトには興味がないです。

以上 ふにやんま

『追いかけるな』大人の流儀⑤ 伊集院静

読書 人生観

 

追いかけるな 大人の流儀5

追いかけるな 大人の流儀5

 

ここ数カ月、電車やバスの中で席を譲られることが立て続けにありました。

白髪のうえ、頭がかなり薄いので、若い人には結構な高齢者に見えるのでしょうねえ。いずれも誠実そうな学生さんでした。

最近でこそ四の五の言わずに「ありがとうございます」と素直に座ることにしていますが、さすがに一番最初はショックで。耳を疑いましたね。

え? オレ? マジかよ?

僕はキミが想像しているよりも、多分ひと回り以上若いと思うよ。

そう伝えたくてたまらん。

悶々としているうちに電車は止まり、学生さんはホームへ降りようとしている。

彼にひとことだけ言いたい。いやダメだ。人の親切はありがたく頂戴するのが大人の男。彼に恥をかかせて何になる。ここは自制しなければ。

追いかけるな!

すいません、どうしてもやりたくて。

伊集院静氏のエッセイ『大人の流儀』シリーズの第五巻。現在、六巻まで刊行されております。遅れてますな私。

好き嫌いがはっきり分かれる作家ですが、私は好きです。でも、文章が誤解を招きやすいのは認めます。

回転寿司は寿司ではない、と書いたら協会から文句を言われた。"回転寿司こそ鮨の極致だ'' という作家を探して書いて貰え、と言った。

マキロイという若者が世界でトップというが、私はこの若者がまだ使えるボールを池に投げたのを見たし、今春、クラブを池に放った。人間がこしらえた道具をこういうふうに扱うバカは何十年経ってもまともな人間になれない。それが世界一というのだからプロゴルフの世界も程度が知れる。

敢えて苦節に身を置かねばならない年齢の若者が、スマホを後生大事に持って、暇があれば覗いている。バカナコトヲ......。

ツイッターフェイスブックも悪いとは言わないが、情報より大切なものが、人間が成長する時期にはあるだろう。

文脈を無視して抜粋すると、いくらでもキナ臭い感じに出来ますね。前後をキチンと読んで貰えれば、なるほど正論だと頷いて頂けると思うのですが。

まあ、このあたりは好みの差でしょうか。求めるものも違うでしょうし。

長く作家をされているかただけに、読者のネガティヴなレビューには類型があります。

◉弟の死、野球での挫折、前妻の病死、その後の荒れた生活と再起。同じネタの繰り返しで、もう聞き飽きた。

『大人の流儀』シリーズも、東日本大震災を契機に始まったもの。人の不幸で商売してばかり。

結構書いていてキツいのですが、半分当たりで半分ハズレ、といったところでしょうか。

『追いかけるな』とは、喪失に会えばその悲しみから容易に抜け出し得ない、人間の心根(こころね)を示した言葉だと思うのです。

追いかけるなと思うこと自体が、どうしても追いかけることをやめられない、ヒトの心の侭(まま)ならさを物語っている。

ヒトはそんなに強くなんかない。でも、そのアンビバレンスこそが人間なのだと。

かつて、私も近しい人を多く亡くしたが、もし私が、その哀しみの中に浸っていたら、私は今こうして文章を書くこともなかったろうと思う。生きることに哀しみがともなわない人生はどこにもない。哀しみに遭遇すると、人は、どうして自分だけが、あの人だけがと考えざるを得ない。しかし哀しみの時間に一人立っていても、そこから抜け出す先は見えない。決して忘れ得ぬことでも、それを追いかける行為は、人を切なくするばかりだ。

作家としてデビューして35年あまり。

愛しい人との別れを経ると、人の心はかくも傷つき、再び前を向くまでに、かくも時間がかかるものなのか。

こと伊集院氏のエッセイに関して言うならば、その魂の変遷を辿れるということだけで意味がある。そしてその魂の変遷こそが、まさに人生そのものだと思うのです。

山本周五郎氏の小説からの孫引き。

苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である。

大層な、前時代的な言葉だと思うでしょう?  私も昔はそう思いました。でも、今はこの言葉の意味が、おぼろげながら分かるようになってきました。

 

おじさん、何だか柄にもない事を語っちゃいました。でも、若いあなたにもきっと分かる日が来ると思うのです。

いつ頃分かるようになるのかって?

そうですね〜、電車で席を譲られる頃かなあ。

以上  ふにやんま