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ふにやんま ー 世界の小所低所からー

http://funiyanma.hatenablog.com/  

『ぼぎわんが、来る』澤村伊智

『ぼぎわんが、来る』澤村伊智(2015)

ぼぎわんが、来る

ぼぎわんが、来る

 

第22回(2015年)日本ホラー大賞の大賞受賞作。ちなみに23回(2016年)は大賞が「該当作なし」でした。

この賞、それが結構多いんですよね。なにしろ栄えある第1回からいきなり大賞は「受賞作なし」ですから。最初ぐらい仕込みとかしないものかしらん。

選考のこうした厳しさが示すように、この賞の受賞作は文句無しに質が高い。まして〈大賞〉ならば鉄板です。

本作も十分に面白い。保証します。

ぼぎわんも怖いし。

作品の面白さを支えているのが、まず澤村氏自身が相当なホラーマニアであると思われること。

知見のストックが伺える部分が随所にあり、古今東西のホラー作品に通じているのが分かります。プロの読み手が、自分が読みたいものを書きました!という感じ。

次にキャラクターのひと捻り。分類上は土俗系、民俗系ホラーになると思いますが、『ぼっけえきょうてえ』三津田信三(作者が好きな作家の一人だそう)の作品との既視感を感じさせないのは、登場人物の現代的な味付けによる部分が大きいかと。

ネタバレにならない範囲で書きますが、まさかホラーでイクメンが出てくるとは。霊能者とか護符とか、まあまあベタなものも出てきますが、本作はことさらホラー好きではないというかたでも抵抗なく読める、ジャンルを超えた作品に仕上がっていると思います。

注)読んだ後で「もろホラーやんけー」「怖かったがなー」とか言わないで下さいね。本格ホラーであるのは当然で、その上でチャレンジをしているという話ですので。過去の大賞受賞作でもある『黒い家』とか、思いっきりホラーですが読まれた方は多いでしょう?あんな感じ。

で、本題です。本書の一番の推しは、宮部みゆきの選評です(澤村さんごめんなさい)

最終選考委員は超豪華で、なんと綾辻行人氏、貴志祐介氏、そして宮部みゆき氏の3名。人気、実力ともに一流どころを揃えました。凄いっ。

中でも宮部みゆきの選評は出色の出来。

本作のどこが優れているのか、ツボを外さず余さず文章化してくれていて、感嘆のひと言。この人に選ばれたならば、受賞の喜びも倍増でしょう。良かったなー澤村さん。

エピソードの進行に沿って一人称的三人称の視点人物が交代してゆく構成が、とても巧く機能していることに感心しました。

うんうん、首も折れよとばかりに頷く私。

小説的な遠近法が効いてくるので、読み手も登場人物たちと一緒に、「ぼぎわんがやってくる」恐怖を現在進行形で味わうことができます。

ダメ、もう折れた。「小説的な遠近法」については省略。

そして本作で最も印象に残る台詞、

あんなもんは呼ばなければ来ない

もキッチリと抜粋。

そう、その台詞、最高ですよね!

もう首、付け根からブラブラです(ホラーっぽい表現に傾きがちな事をお許し下さい)

冒頭でプロの読み手という表現を使いましたが、宮部氏は超一流のプロの書き手であると同時に、超一流のプロの読み手でもありました。

他の二人の選考委員も本作を大賞に推しており、満票ということで選者各位の目利きは確かなのですが(ぶん殴られるかな)、宮部氏の作家としての誠実さと言いますか、原稿用紙があれば常に最善を尽くすという姿勢には、ぼぎわん以上の凄味を感じましたね。たとえ悪っ。

1ページ弱の選評ですが、そこにたどり着くのを楽しみに読破するのも、本作の読みかたとしてお薦めかと。

やっぱり超一流は凄いっす。

以上  ふにやんま

『男たちへ』塩野七生

『男たちへ』塩野七生(1989)

かの名高いローマ人の物語(単行本で15巻、文庫本で43巻の大著)の塩野七生氏です。43冊コンプリートセットだと、ビジュアルでビビります。Amazonに画像がありませんでした。残念。なお、お察しのように読んでおりません。

私、西洋史って疎いんです。疎いなんてもんじゃなく、全然知らないと言っていいレベル。西洋史を知らないと言うことは、世界の歴史の殆どを知らないに等しいですから、文学でも宗教でも美術でも、理解に甚だ支障が出ます。肝心要のところが掴めない。

「やっぱり勉強した方がいいかな」と気づいてから、30年は放置してきました。以前にも書きましたが、かの佐藤優さんならば速攻で着手しているはず。

懺悔の値打ちもないって歌がありましたが、若いうちに勉強はちゃんとしておきましょう。命短し恋せよ乙女であります。ちなみに私、日本史も駄目でして。なんやねんチミィ。

経験にのみ学んできた愚者の事はともかく。そんな人間が塩野七生氏の著作を語るのも相当勇気が要りますよ。そこだけは買って欲しい。買えるかいっ。

本書では 28章 インテリ男はなぜセクシーでないか が引用される事が多いと思います。一冊のエッセンスが凝縮されたような秀逸な章ですが、そこは敢えて外します。手元でボールを動かして芯を外す。WBCでも有効性が立証された投球術ですね。いや、読み手にジャストミートしろって。

第43章 男が上手に年をとるために から。

戦術一。まず、自分の年齢を、いつも頭の中に刻みこんでおくこと。

から始まって十の戦術が挙げられているのですが、その中から二つ。

戦術七。優しくあること。

優しい若者を、私は若者だとは思わない。立居振舞いのやさしさを、言っているのではない。心のやさしさ、とでもいうものだ。

若者が、優しくあれるはずはないのである。すべてのことが可能だと思っている年頃は、高慢で不遜であるほうが似つかわしい。

優しくあれるようになるには、人生には不可能なこともある、とわかった年からである。自分でも他者でも、限界があることを知り、それでもなお全力をつくすのが人間とわかれば、人は自然に優しくなる。

優しさは、哀しさでもあるのだ。これにいたったとき、人間は成熟したといえる。そして、忍耐をもって、他者に対することができるようになる。

この「若者は高慢不遜たれ」というところがいいですね。不条理は世の常である、と私も平静を保ちつつ言える年になりましたが、若者にしたり顔でそんなことは言って欲しくない。

未来は全て自らの手の内にある

そう信じて疑わない存在であって欲しいと思うのです。このパート、塩野氏もかなり真面目です。

二つと言いましたよね。本章では具体的な十の戦術に続き、最後にこう締め括られています。

戦術の最後。利口ぶった女の書く、男性論なんぞは読まないこと。

うまいっ。ここで終わってもいいのですが、念押しで次章 第44章 成功する男について の項目だけ。

第一に、身体全体からえもいわれぬ明るさを漂わせる男

第二、暗黒面にばかり眼がいく人、ではない男。

第三、自らの仕事に九十パーセントの満足と、十パーセントの不満をもっている男。 

第四、ごくごく普通の常識を尊重すること。

このごくごく普通の常識を尊重、ということの解説がまた良いのです。待てよ、先に項目だけって言っちゃったかな。まあいいや。

これは、尊重することであって、自ら守れと言っているのではない。(中略)では、なぜ普通人の常識は尊重しなければならないかということだが、それは、人は誰にでも、存在理由をもつ権利があるからである。そして、しばしば、普通人が自らの存在理由を見出すのは、世間並の常識の中でしかないのだ。もしも、人生の成功者になりたければ、どんなに平凡な人間にでも、五分の魂があることを忘れるわけにはいかない。

これは、人間性というものをあたたかく見る、ということでもある。真にヒューマンな人のまわりには、灯をしたうかのように、人は自然に集まってくるものである。

あ、この人は分かってる人だ。

そう得心させるに十分な一文だと思いました。想像するに、この人の書く歴史は、英雄譚に塗り固められたものではないだろうなと。

こんど確かめてみます!と元気良く言えないのが辛い。歴史本ニガテデース(外国人風の逃げ)

この章でも結びはウイットに富んでいます。

こんなに完璧な人って何人いる?なんて聞かれそうだから、あらかじめ予防線を張っておきます。

なに、四六時中そうでなければ成功しないと言っているのではないのです。まあ、一日に十時間この調子でいられる人なら、ということにしましょう。八時間でも無理、なんていう私のような者もいるけれど、私は男ではありませんから。 

しゃちこばりがちな男の構えを見極めて、スコーンと肩透かしを喰らわすこの余裕。

本書は塩野氏の専門であるイタリア史、ローマ史に通じたかたならばもっと楽しめるはずですが、冒頭に申し上げましたとおり、私にはその部分は皆目分かりませんでした。

半分しか分からずとも、とても味わい深く読めましたので、大勢おられるであろう歴史の素養のあるかたには、是非満喫して頂きたく。こうしてお薦めする次第であります。

以上 ふにやんま

『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』森茉莉

『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』森茉莉 [編]中野翠(1994) 

ベスト・オブ・ドッキリチャンネル (ちくま文庫)

ベスト・オブ・ドッキリチャンネル (ちくま文庫)

 

周知の事かと思いますが、森茉莉氏はかの文豪、森鴎外の長女。それだけで恐れ入りましたという感じ。なにしろ「もりまり」でフルネーム一発変換が出来てしまうぐらいのかたです。

本書は1979年から1985年にかけての週刊新潮』での連載『ドッキリ・チャンネル』を、森氏の大ファンである中野翠氏が文庫本として編纂したもの。

5年半という連載期間の長さだけでも、その人気のほどが伺い知れますが、敢えて補足。文才というのはなかなか遺伝(生物学的な意味ではなく)しないのが世の常でありますが、このかたに関して言えばとんだお門違い。親の七光り云々を抜きにして、テレビ評論家としてはまさに超が付く一流。あのナンシー関氏以来の衝撃でした。消しゴム版画ばんざい。分かりにくいかな?

批評文と、戯曲に長じていたが、小説は理屈が前面に出ていすぎた点も、鴎外は三島由紀夫と共通していた。(中略)私が小説を書く時のように、書いている内に一人の男が相手の少年を嫉妬し出したり、だんだん殺意を抱くようになってくる、というような、作者が小説の中の人物に引っ張られて行く、というようなところが鴎外にも三島由紀夫にもない。彼らの小説には最初の一行を書く時に、既う(もう:引用者注)その小説の最後の一行が作者にわかっている、というようなところがある。それでは小説は読んでいて面白くないのだ。作者も、読者と一しょになって、小説のなりゆき、小説の中の人物がどんなになって行くか、ということに引っ張られてゆくのでなくては、面白くもおかしくもないのだ。それが鴎外にも三島由紀夫にも、わかっていない。これが鴎外と三島由紀夫との二人の生徒に対して呈出するモリマリ先生の忠告である。

いきなりの長文、且つテレビ批評でもなんでもない部分の引用をお許しください。だって、ここめちゃくちゃ面白くないですか?

鴎外と三島の小説にダメ出しですよ。

要は「小説は理が勝(まさ)っては面白くない」という趣旨なのだと思いますが、天国(かどうかは知りませんけど)の二人も苦笑いするしかないでしょう。

森家のご令嬢にかかっては、日本を代表する文豪も大家もかたなしのようで。

最初の一行を書く時に、もうその小説の最後の一行が作者に分かっている

というのは実に言い得て妙。正鵠を射た、鋭い批評だと感心しました。言えない。これはいろんな意味でモリマリ先生にしか言えないわ。

テレビ批評の部分は、連載の時代が時代だけに若いかたにはおそらくしんどい。頻繁に取り上げられるのは大川橋蔵竹村健一沢田研二萩原健一萩本欽一石坂浩二高峰秀子岩下志麻山口百恵といった面々。

政治家ではレーガンゴルバチョフ大平正芳など。長嶋茂雄貴乃花(もちろん先代)、立川談志なんかも割と。50歳目前の私でもギリギリです。

かろうじて分かりそうなかたを挙げるならば、田原俊彦ビートたけしB&B(知らないかたも多いかな。”がばいばあちゃん” の島田洋七と洋八の漫才コンビ)ぐらいでしょうか。

テレビ批評の難しいところで、どれだけ鋭い批評であっても読み手が当人を知らないとピンとこない。有名人のイメージというのは変遷しますので、時代性と無縁には読めないのですね。

なので幅広くお薦めできる本 という基準からは外れてしまいます。ここはナンシー関氏も同様で、とても悲しい。

後世に残るテレビ批評というのはありえないというのが厳然たる事実。そこをなんとかした中野翠は大したものです。

父・鴎外をはじめとする家族の思い出話、結婚離婚のいきさつ

は思い切って割愛したと中野翠氏は「編者あとがき」で書いていますが、氏がどうしてもカット出来なかった部分、すなわち愛おしすぎて切るに忍びなかったと思われる(ここ、完全に私の見立てですのでご注意ください)部分がたまらんのです、はい。

私は父をパッパと言っていた。

彼はそれだけではない。明治の女の子である私に、正座をさせず、ねころんでいることを奨励した。座る時には脚を横に流して座るように、教えた。そうして母に言った。(お茉莉が大きくなって洋服を着る時に、行儀よく座らせては曲った脚になる)

そういう風で、父を恋人のように(十八歳で父に死に別れるまで)思っていて、なんとなく年上の人でなくては好きになれなくなった。幸い、夫は十歳上だった。

もう、鴎外、ベタ甘。

どれだけ溺愛するんだよ!と突っ込みたくなるエピソード満載。愛娘を嫁に出すときもこうですよ。

私は髪も女中に結ってもらう。帯も一人では結べない。飯は炊けない、料理もだめ。薬鑵を水道の蛇口に近づけて水を汲んだことさえない。そういう娘なので山田と縁談があったのを幸い、父母にとって大変な安心だったのである。二十七、八、三十がらみの女中が六人もいる。それがお茉莉にとってお誂え向きであった。(中略)お茉莉という娘は、金持から乞われた機会を逃さず、そこへ遣るより仕方がない。それが父にも母にもわかって いたのである。

こちら大鴎外の証言ではなく、森茉莉氏の述懐です。なかなか冷静な自己分析。そしてこの筋金コンクリート入りのお嬢様のご婚姻は、父母の意に反して、最終的には上手くいかなかったりするんですね。だって結婚直前になって、それまで溺愛してきた娘に、急に鴎外がつれなくなったりするんですよ。

バレバレじゃん!全然子離れできてないじゃん! まあ、それは置いておきましょう。

鴎外の人間像に関心のあるかたなら、興をそそられる逸話がふんだんに出てきます。そこだけで楽しめる構成。中野翠氏、いい仕事です。

特筆すべきはこのお嬢様、明治の君世のお生まれとしては、相当に波乱万丈な人生を歩まれたにも関わらず、真っ直ぐな心根を生涯失うことがなかった。鴎外の溺愛は無駄ではなかった、ということでしょうね。

1998年のパート10、鴎外が自分の心中にある固い貝殻のようなもの森茉莉氏の表現)から生じる苦しみを、妻(大鴎外の奥様=森茉莉氏の母上ですね)に切々と語る部分。

同じく1998年のパート24吉田茂(とアイゼンハゥアー)の見せた、一国の宰相の横顔を評した部分。

いずれも素晴らしい。後者を少しだけ引きますが、抜粋部から結びの一文まで、溜息が出るほどに流麗かつ高潔な文章です。

それは、国民の運命を背負っている人の、顔であった。その顔はたとえていうと、子供の、癌であるか、そうでないかの試験を、医者がすることになっていて、その試験の結果を訊きに病院へ行く日の、父親の顔であった。私たち国民への気がかりを、あの小柄な体一身に背負っている姿を、私は見た。

稀代のエッセイストである森茉莉先生のお手並み、しかと拝見しました。

ご異論もあろうかと思いますが、

一冊読めば分かるっ。

この人は名人だ!

きっと何をいまさらなのでしょうね。ものを知らない人間は強いぞ。大事なのは自分の言葉で断言することだ! (←いい事言ってるっぽくしてみました)

ちなみに『ドッキリチャンネル』全文は、森茉莉全集』の六巻及び七巻に収められているそうです。

次は小説家、森茉莉先生の腕前を確かめなくちゃ。不遜、不遜の与謝不遜と。

以上 ふにやんま

『ひとを〈嫌う〉ということ』中島義道

『ひとを〈嫌う〉ということ」中島義道 (2003)

気になった人の本は続けて読む癖があります。前エントリで取り上げた『うるさい日本の私』に続き、 下の2冊を読んでからの

私の嫌いな10の言葉

私の嫌いな10の言葉

 

 

人生に生きる価値はない

人生に生きる価値はない

 

表題の1冊、『ひとを〈嫌う〉ということ』 これが一番面白かった。

中島氏、ご自身の家庭について『うるさい日本の私』で 実質崩壊 と一言触れていましたが、本書ではその実情を明らかにしています。人様の家庭不和に触れるのも趣味の悪い話ですので簡単に。元々、氏はウィーンに奥様と14歳のご子息を伴なって研究のために滞在しておられたのですが、

私は家から追い出され、昨年暮れにわが家の近くのホテルに移り、三カ月そこに滞在し、今年三月在外研究の期間が切れてひとりで帰国しました。その後ふたりはウィーンに留まり、時々私がウィーンを訪問したりふたりが帰国したりしますが、妻はカトリック洗礼志願者として毎日聖書と祈りの生活、そして息子は私を完全に拒否したまま顔を直視しない関係、何も言葉をかわさない関係、おたがい相手が存在しないかのように振る舞う関係が続いております。

きっつぅ。「だからこんなシニカルな本ばかり出すようになってしまったのね」ということでは全く無いのですが、この事実を知っておくと氏の著作、大いに味わいが増しますので予備知識としてご紹介しておきます。しかし身につまされるなー。

タイトルから伺えるように、中島義道氏、相当偏屈です。で、なんでこんな変な学者さんの本が気になるのか。

私も相当偏屈でした。

いやー、齢50に届こうかという年になって初めて気づきました。ありがたいことです。やっぱり本は読んだほうがいいや。

サラリーマンには同期というのがありますよね。サラリーマンに限りませんが。同期会とかがあると、私も昔は一応顔を出してました。今は全く参加しませんんが。

で、酔いがまわってくるとあちこちから聞こえてくるんですね。同期賛歌が。

「いやー、同期ってホントいいよな~」

「会社で心から気を許せるのは、同期会だけだよ」

私、そいつの顔をまじまじと見つめちゃいますもん。

こいつ正気か?って

同期クラスメートに置き換えてみましょうか。クラスには気の合うやつもいれば合わない奴もいる。ブルーハーツ風に言えば「いい奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない」(TRAIN-TRAIN)そんなところで御の字でしょう。

先生の掲げる「クラス仲良く」はお題目としては間違ってはいませんが、「クラス全員とお友達になりましょう」までいくと受け入れがたい。なんでクラスの全員と仲良くせなアカンの?そんなん、ありえへんし。

同期だって同じでしょう?同期の中には、気の合うやつもいれば合わないやつもいる。気のあうやつとだけ付き合えばいいいし、それならば同期の枠に縛られる必要なんかこれぽっちもない。

新人研修で人事部のメンバーがよく言ってました。「この繋がりは一生ものだから大事にしろよー」「縁あって集まった仲間だからな」って。違和感感じまくりでしたね。難しいプロジェクトも、自然と集まった同期の団結で一気に解決! 池井戸潤かよ。

やっぱり偏屈な私大人の階段を昇れずに死ぬのね。別にいいけど。

人脈はあるに越したことはないのがサラリーマンですが、そんな打算含みで付き合うのはまっぴらごめん。ましてや気の合わない社内の人間と、大好きなお酒を呑む時間なんて、こちとら残されちゃいないんだよ!そんなに長い人生か!と啖呵のひとつも切りたくなります。ブルーハーツ、もう1回出していいいですか?

どこでもいつも誰とでも笑顔でなんかいられない(チェインギャング)

「それでいいんだ」「それで当然なんだ」「それを受け入れて物事を考えようぜ」というのが本書の趣旨でありまして。あ、俺だけじゃないんだ、こういうものの考え方をするのって。目からうろこだいる。

「結婚式には出ないと決めている」も同じでしたね。披露宴への出席を打診されると、二人が仲良くやってるんだからいいじゃん、葬式には絶対出てやるからな、とか平気で言う私。大前研一氏も結婚式は出ないそうです。

「負け犬」という特性を他人は私にべたべた貼り付ける。私はその場合自分は「負け犬」じゃない、あるいは「負け犬」でもいいじゃないか、と自分に言い聞かせても効果はない。(中略)私は「負け犬」を自分に対して承認せざるをえない。私は自分を「負け犬」という一言でまとめあげる共謀者の役を担わざるをえないのです。このことがわからない鈍い人が多くて困ります。

「前科者!」とか「人殺し!」とか「私生児!」とか「オカマ!」とか「インポ!」とか「片端!」とか「パンパン!」とかの言葉を投げつけられた当人は、常日頃そのラベルの不当性に激しく抗議しているはずなのに、とっさに他人からこうした言葉の矢が飛んできたとき、平静ではいられない。頬は熱くなり、心臓の鼓動は速まる。こうした身体の変化をもって、自分がその言葉を引き受けていること、そしてそうした自分に羞恥心を抱いていることを承認している。つまり、頭でどう思おうと、身体全体で反応する羞恥心を通じて、こうした呼称が自分に貼られる正当性を承認しているのです。それがまったく不当であると感じているのなら、生じるのは怒りだけであって、羞恥心ではないはずですから。

文化的、歴史的に「観念」として伝承されていく嫌悪感がいかに危険で抵抗し難く、個人の領域では対処しづらいかを語った部分です。最近では最も唸らされた一文でした。

「性格を変えて楽しく充実した人生を」みたいな軽薄な本とはちょっと違いますので、ご注意ください。結構骨がありますよ。

以上 ふにやんま

『うるさい日本の私』中島義道

『うるさい日本の私』中島義道(1996) 

うるさい日本の私―「音漬け社会」との果てしなき戦い

うるさい日本の私―「音漬け社会」との果てしなき戦い

 

日本の街はうるさい。

あらゆるスピーカー音の発生主に対して、敢然と抗議する。しかも絶対にあきらめないと公言して憚らない闘う哲学者中島義道氏がブレークした本です。ちなみに本業はドイツ哲学だそう。

「うるさい日本」の「うるさい私」

どちらとも取れる、なかなか洒脱なタイトルですね。

現代日本では、われわれは一歩家を出るや否や、スピーカーによる挨拶、注意、提言、懇願の弾丸を浴びねばならない。

家にいても、焼き芋屋、竿竹屋にたたき起こされ、消防署や警察署の広報車に脳天をぶち割られる。

私は買い物に行くことができない。ほとんどすべての店はすさまじい音楽をかけており、エスカレーターの注意、禁煙の呼びかけ、催し物の案内、呼び出し・・・と地獄そのものである。

私も公共スペースの過剰な音声案内には辟易するタチですので、大いに共感しました。まあ、ここまでの闘士っぷりは発揮できませんが。。。

作者の言う言葉の氾濫と空転機械音地獄浴びるような轟音との闘いの模様が大変面白い。江ノ島海岸で闘い、JR各社と闘い、美術館のハンドスピーカー案内と闘い、名所名刹と闘う。挙げていけばキリがありません。

新宿駅内でも、東口と西口を結ぶ通路で二カ所も毎日ビューカードの宣伝放送をしている。まず、いつものように、マイクをにぎる男に近づきその顔をめがけて「ウルサイ!」とどなる。一瞬何のことかとひるんだすきに、「ここは駅であり、公共の場所であるのに・・・・」と喋りつづける。それからグリーンカウンターに訴え、音量を下げさせる約束をする。だが、そんな約束など守るわけはない。

次のとき、また見つけると「ウルサイ!」とどなる。

「いつものように」っていうのが既に半端ないですね。

持ち歩いている騒音計を鞄の中から取り出して「さあ、喋ってみなさいよ。何デシベルか計ってみるから。結果を環境庁に報告しますから」と騒音計のマイクを向けると、喋らない。その日はそれで終わったが、次のときソッと後ろから行ってスピーカーのスイッチを消してしまった。だが、暗騒音の高い新宿駅構内のこと、マイクをにぎり酔いしれるように喋りつづけるように喋りつづける彼は気がつかない。

ははは。笑い事じゃありませんが。でも面白い。

バスの車内放送。いかに懇切丁寧に、微に入り細を穿って乗客の安全に配慮したアナウンスが、繰り返し繰り返し流れることか。ご存じないかたはおられないと思いますので、そこは省略。

車内をよく観察してみよう。立っている人は全員つり革や手すりにつかまっている。でないと、揺れる車内で身体を安定させることができないことを知っているからである。そして、曲がり角などでは、それまで漠然とつり革に手をやっていた人はギュッとにぎりしめる。「走行中」でも自分の降りる停留所が近づくと、車内の前のほうに走ってゆく人がいる。「走行中」でも、後ろの空いた席にずれる人がいる。だが、運転手は注意しない。降りるさいは、みな足元を慎重に確認して降りている。

つまり、一方で放送がなくとも人々は最低の身の安全を承知しており、他方で放送があるにもかかわらず、バス車内で人々は「おやめください」と言われる行為をくりかえしているのだ。車内放送は、危険を防止するという実効はないのである。

そう、実効性のないアナウンス が氾濫している現状はおかしい、という著者の主張は間違っていないはずなんです。

全路線の乗換案内や、乗換先路線の切符の車内販売なんて、その情報を必要とする人の存在すら確かに怪しい。観光シーズンならまだしも、通勤や通学でほぼ決まった乗客しか乗っていないのに、毎日延々と流される録音テープ。絶対におかしいでしょ。

それを「万が一にも事故があったらいけないから」「事故が起きた時に、回避義務云々で責任を問われたくないから」という、極めて日本的な配慮が覆い隠してしまっている。過去の事故例とか発生率とか関係ないんですね。待っているのは「お客様に、もしものことがあってはいけませんから」という極め台詞。

今ならばジョルダンGoogle Mapsがあるじゃないですか」と言っても、きつと「いやいや、スマホをお持ちでないかた、視覚が不自由なかた、ご高齢のかたといったお客様もおられますから」って返されるんでしょうねー。

弱者への配慮って、そういうことじゃないと思うんだけどなぁ。

困った人がいれば聞いてくるでしょ。その理屈が通じない。

この「困ったら聞いてくるだろう」が、なぜ社会の前提として通じないのか。本書後半は、笑える前半とは打って変わって、硬派な日本人論が展開されます。

ウチの周りだけ来なければ、その損害分はお支払いします

撃退の為に屑鉄屋に一万円、焼き芋屋に三千円を払う奇特なだけの人じゃありませんでした。もっとも自宅が職場である者として、互いの営業を妨害しない為のきちんとした交渉の結果なのですが。話が逸れてますね。

本書では出てきませんが、最近忖度という言葉がよく使われます。相手の気持ちや立場をおもんばかり、先回りして動いてあげることは、日本古来の美徳とされてきました。

しかしながら、行き過ぎた忖度のはびこる社会は、言葉によるコミュニケーションを否定する社会に繋がっている。

これがイカンのだと。

音漬け社会の元凶は、日本社会に充ち満ちた強い同調圧力だと、筆者は看破しています。

「自分がされたらイヤなことは他人にしてはいけない」正論ですね。

この正論が「自分がされてイヤでないことは、他人にしても構わない」「自分がされて嬉しいことは、他人も嬉しいに違いない」といった間違った飛躍をしているのが今の日本社会だ、というのが筆者の主張です。

マジョリティの暴力

 これが曲者なんだよと。

マジィリティはおたがいにこのルールに従って、注意しあわず、議論をしあわず、駆け寄って助け合わず、質問をしあわない。(中略)すべて放送がしなければならないことになる。

そして、「いじめ」は、まさにこうしたマジョリティの暴力が支配する社会そのものが生み出したものである。みんな同じ感受性をもっていると妄信しているから、そこから外れた感受性をもつーーー私のような音の氾濫に苦しむーーー者は徹底的に救われない。「ほとんどの人は苦しくない」という暴力的論法によって無残に切り捨てられるのである。

他人を自分の投影と捉えず、自分とは「異質のもの」として認識する。生徒に自分の言葉で決して「語らせようとしない」学校教育の在り方を改める。筆者の提言にはなるほど!と唸らせるものがあるのですが、何と言っても本書結びの十ニ条(筆者曰く、まだまだ挙げられるそうですが)が傑作です。少しだけ抜粋。

一、つねに自分の視点を忘れず、いかに多くの人が反対しようと「私は~したい」「私は~したくない」と一度は語ってみる。その後(場合によって)全体に従う。

三、なるべく他人の発した言葉の裏に隠された感情、思惑、意図を探ることをせず、あえて文字どおりの意味をとらえるようにする。「あの人どういうつもりでこんな言葉を吐いたのだろう」とクヨクヨ考えることをやめる。

十二、相手を傷つけるから、あるいは心配かけるから言わない、という態度をなるべくやめる。「どうした、顔色悪いよ」と親に言われたら、「なんでもないよ」と答えるのではなく、「きょう、学校でカンニングしてつかまった」と答える。

何ごとにつけ「察し」が悪くなろう、という筆者の主張には大いに賛同しました。しましたので、こういう時は避けるであろう「オチ」の十二条目も引用しちゃいました。

大いにお薦めの一冊。勿論、文字どおりに捉えて頂いて結構です。

以上 ふにやんま

『1984年のUWF』柳澤健 自分的に最終回-70億の鏡-

すっかり更新を怠っておりました。怠け者には福があるっ。

2/3(金)にAmazonから配信されて、すぐにアタマから読み直しました。単行本向けに結構加筆されていましたので、買って良かったかなと。

『Number』と両方読み比べる物好きもあんまりいないと思いますが、でも殆どの写真は単行本では見れませんからね。

1984年のUWF (文春e-book)

1984年のUWF (文春e-book)

 

タイトルに最終回と付けたのは、長きに渡って楽しませてくれた本連載の発刊にあたり、プロレスもののエントリには一旦区切りを付けようという意思表明でもあります。とか言いながら、次に読もうとしているのは 

1964年のジャイアント馬場

1964年のジャイアント馬場

 

だったりするのですが。

業が深いのう、プロレス。ぬはは。

突然ですが、自分では

『70億の鏡』

と名付けている空想上の道具がありまして。この鏡、ある種の質問に対しては全知全能で答えてくれる訳です。ドラえもんひみつ道具的な感じですね。

「世界で一番、野球の素質を持っているのはだーれ?」とか「ではサッカーは?」とか囲碁は?」とか。

そうすると、世界中の生きた人間の中から、バシバシ選んで鏡に映してくれる。略歴付きで。

存命中の人間に限定されるのは、単に死んだ人間では面白くないからであって、サーバーの負荷とか関係ありませんので。何故か競技に限定されているのかも同じ理由です。

「マジかよ!やっぱり大谷翔平が野球に出逢ったのって、神の配剤だったんだ!」とか、囲碁の天才ってジンバブエ人かよ!絶対宝の持ち腐れじゃん!死ぬまで碁石見ねーよ!」とか、「サッカー、よりによってアルプスの羊飼いで爺さんかよ!年齢的に取り返しつかねーじゃん!もしかしてペーター?」とか。相当楽しめそうでしょう?

スポーツの場合、世界一の素質の持ち主は、現役ないし引退した選手であるケースが意外に多いと思うんですよね。ヒトは出会うべくして運命と出会うもの、かな。

そしてプロレスラーの場合、鏡に映るのは我らが佐山聡先輩だと確信しております。結局そこかい。すいません、最終回なんでお許しを。次から馬場さんを褒めます。嘘ぴょん。

佐山聡は身体能力の化け物である。

TBS系列のドキュメンタリー番組『マイスポーツ』が、全盛期のタイガーマスクの体力テストを行ったことがあった。100m走12秒7、背筋力293kg、総合脚力はアルペンスキー日本代表の平均を上回る360ワット。全身反応時間は陸上短距離日本代表の平均を上回り、垂直跳びは走り高跳び日本代表の平均を超えた。

多少盛ってるんじゃないの?とかいう邪推は置いときまして。

昔、TVで新日の練習風景を映していて、カメラの前のおふざけですね。腕立て伏せから手をポンと床から離して、身体が宙に浮いている間に何回手を叩けるかという遊びをレスラー同士でやっていたと。

その時、パチパチと手を叩きながら、そのまま起き上がってしまったのが佐山だったと記憶しています(間違っていたらすいません。若き日の山田恵一とか一緒だったような・・・時代考証的にあってますかね?)。身体をまっすぐ伸ばしたままですよ。ドヒャッと思いましたもん。レスラーすげえって。

プロレスラーの価値は、スペックだけで測れるようなものではないのですが、佐山の身体能力にはやはり目を見張るものがあったんだと。個人的にはさもありなんという思いでしたね。

 前田日明は、佐山の身体能力は超人的だったと評している。

《ひとりのアスリートとして見ると、たぶん俺が人生で見た人の中で、一番運動神経がいいですね。世界中、ロシアとか全部を含めて。生まれながらの運動神経に関してはとんでもないものを持っている。スポーツならどこ行っても成功したでしょうね、あの人はね。天才的なものがありました。》

うんうん。盟友、小林邦明氏にも登場してもらいましょう。

タイガーマスクが入場する時に、エプロンからトップロープにひょいっと一気に跳び乗るでしょ?あれができるレスラーは、ほかにひとりもいないんですよ、いまだに。

「いや、〇〇も出来るし」「俺見たし」みたいな反論は的外れだと断言しておきます。

小林邦明(必ずフルネームで呼んでしまうのは私だけ?)の言いたいところは違うんですよ。コーナーポストに一発で跳び乗れるレスラーは他にもいるかも知れない。でも立ち居振る舞いというか、 全ての所作が美しく、観客を魅了する才能に溢れたプロレスラーは古今東西佐山聡だけなんだと。

勝手に小林邦明の言葉を翻訳しまくる俺、ナイス。一人称、いつの間にかオレだし。

前にも紹介したことがありますが、佐山の天才が光る動画を、最終回にもう一度エントリしておきたい。止めないでっ。


初代タイガーマスクの凄すぎるミサイルキック

ミサイルキックはもちろん凄いし、その前のドロップキックの 打点の高さとか、目を奪われるシーンが前後に多々ありますが、注目頂きたいのは動画53秒のあたり。佐山がコーナーポスト付近のトップロープに跳び乗って、ミサイルキックに踏み出す際の動きです。よく見てくださいね。跳び乗る跳び出す、が連続していますよね? タイミングとしては「ワン、ツー」の2拍。

これ、ありえないでしょう?

着地(ロープだけど)と同時に跳べって言ってるようなもんですよ。力学の法則に反してるし。

並のプロレスラーならば、①跳び乗る②溜める(膝をクッションにして沈む)③跳び出す、の「ワン、ツー、スリー」になるはず。仮にほぼ2拍でジャンプ出来たとしても、ロープに跳び乗ると同時に膝を折って、腰を沈ませてから、手を大きくスイングさせて跳び出すと思います。説明が分かり辛くてすいません。

膝のクッションを使い切らず、遊びを残してロープに跳び乗って、わずかなロープの反動と全身のバネを使って跳び出しているんだよ。

解説は出来ますよ。動画を見てからなら。

でも、真似は出来ないでしょう。誰かに再現しろって言っても、このレベルでは絶対無理。だって尋常じゃないことにすら気付きませんもん。自然過ぎて。天才佐山、恐るべし。

繰り返しになりますが、超人的な身体能力や、軽業的な跳び技だけが佐山のプロレスラーとしての才能を物語るものではありません。

世界のプロレス史に必ずや残るであろう屈指のタレント(Giftedと同義のほうで)が、実はプロレスが好きではなかった。自分が編み出した、自分にしか作れなかったファイトスタイルに、何の愛着も持っていなかった

UWFの長い系譜の中で、私がいちばん惹かれるのがこの皮肉です。プロレスラーとして『70億の鏡』に映るべき男が、実はプロレスを愛していなかったなんて!知ってたけど。神様って意地悪。

佐山もまた「タイガーマスクは裏切れない」という。

「道を歩いていると、45歳から50歳くらいの人が僕を見て、『佐山さん、やっと会えました!』って泣いちゃうんです。僕自身は過去に執着する人間ではないんですけど、泣かれちゃった以上は、タイガーマスクの雰囲気を出さないといけない。言われた瞬間にパッと変えるのは、結構キツいですけどね(笑)」(佐山聡

佐山先輩、人柄が現れてますね。

史上最高のレスラーのファイトは、かつてかくも深く少年達の心を打ったのです。佐山先輩がどう総括しようと、それだけは揺るがない真実。

私もきっと泣く。

以上 ふにやんま

『1984年のUWF』柳澤健 第25回「バーリ・トゥード」

1984年のUWF柳澤健 第25回「バーリ・トゥード」 

Number(ナンバー)917・918号[雑誌]

Number(ナンバー)917・918号[雑誌]

 

単行本が発売になりまして、早速Kindleで予約購入しました。佐山タイガーの表紙が素敵。そうくるか。

1984年のUWF (文春e-book)

1984年のUWF (文春e-book)

 

この期に及んで『Number』にあわせたエントリに意味があるのか?という疑問も湧きましたが、とりあえず続きを。Kindle版は2月3日配信だそうで、まだ届いておりません。あしからず。

単行本を読んでからでは遅いので、今のうちにあえて本連載への不満(というか要望)を挙げるとするならば、

最大の当事者である、UWF主要選手へのインタビューが全くない。

証言のソースが取りやすいところに限られている。ターザンとか当時の若手クラス、それもUWFの外郭団体みたいなところばかり。

◉これは読者の誰も知らなかったはず!という驚愕レベルの新事実が出てこない。

といったあたりでしょうか。思うに、

①連載開始前から当て込んで、唾をつけていたインタビュー先が土壇場でことごとくポシャった。

けれども連載は既に決まっており、見切り発車せざるを得なかった。

といった複雑な裏事情があるのではないかと。完全に憶測ですけどね。憶測に下線引くなって。

今回のテーマは、タイトルから分かるように「バーリ・トゥード」。

総合格闘技の世界に、UWFが先駆者として多大な影響を与えたというのは柳澤氏の一貫した解釈ですし、私も完全に同意します。UWFが存在したことのまさに歴史的な意義として、こうして取り上げてもらえる事には大いに満足しています。前置きが長くなりました。

今回の主人公である中井祐樹選手は修斗出身で、佐山にとっては直弟子にあたりますから、UWFの本流にごくごく近しい存在。連載が始まるまで、中井祐樹選手の名前すら知らなかった私ですが、今回の内容に興味を惹かれて、いくつか動画を見ました。

こんなのとか。 

Giant slayer!!! Yuki Nakai - 3 fights in 1 night!! (Gets blinded for life) (Vale Tudo Japan) - YouTube

こんなのとか。

閲覧注意!エンセン井上対ジェラルド・ゴルドー 不穏試合 - YouTube 

1995年「バーリ・トゥード・ジャパン95」

この大会で中井選手が生涯背負うことになったダメージは、皆さんご承知の通りです。動画のタイトルを借りれば、

Gets blinded for life

心底お気の毒だと思いますし、感覚器に不可逆的なダメージを与えたゴルドー選手の行為は決して是認できません。バーリ・トゥードのルールを世界中が模索していた、草創期の試合だった事も中井選手にとって大きな不運でした。

ただ、いかに初期の事件とは言え、バーリ・トゥードはやっぱりバーリ・トゥードなんですよね。突き詰めれば命のやり取り。いくら急所への攻撃と目潰しは反則と言っても、そんなのあくまで紳士協定で、土台ムリがあるんじゃないのという話です。危険にさらされ、恐怖に駆られればルールもへったくれも無いのが人間というものでしょう? 中井選手がゴルドー戦で何のアピールもせず、試合を続行したのは始めからその覚悟があったからだと思うんですよね。決して想定していなかった訳ではないと。

ことの本質は、実はゴルドー選手の個人的な資質うんぬんとは無関係です。サミングを仕掛けるという事は、相手がやり返してきても文句を言えない状況に自分を追い込む訳ですよ。本人が意図するせざるに関わらず。ベテランのゴルドー選手が、それを分かっていなかったとは到底思えない。

この試合、ゴルドー選手にはそれだけの自信があったということでしょう。短い動画からは判断しにくいですが、ゴルドー選手、繰り返しサミングしていると見ます。コーナーにガブられて、中井選手の頭を抱え込みながら吊っているシーンでも、死角になった右手で絶対やってますね。決して本連載にあるような、開始30秒だけの話ではない。

何度もやっているほうが、ずっと悪質やんか!

私は逆だと思います。ゴルドー選手は何度も警告した。それを中井選手が再三に渡って無視した。この試合で中井選手が負ったダメージは、その点においてはアクシデントとは呼べない、起こるべくして起こった結果ではないかと。

「私は男らしく堂々と戦いたかったが、彼は私にくっついたまま離れようとはしなかった。私はレフェリーに『この状態をなんとかしろ。さもないと俺はこいつを殺すぞ』と言った。

フラストレーションがたまった私は、ナカイの目に指を入れた。私は負けるのが嫌いだから、リング上ではクレイジーになるんだ。だが、ナカイはタップしなかった」(ジェラルド・ゴルドー

ゴルドー選手と言えば、勝敗についての事前の取り決め(ブックというやつですね)だけは守る、ビジネスにおいてはプロフェッショナルな格闘家のはず。いかに同業者の評判が悪かろうと、理性を失って自分がコントロール出来なくなるタイプだとは思えないんですよね。本人のコメントとはかなり異なりますが、あれは商売用ではないかと疑っております。

中井選手のファンからは怒られそうですが、動画を見た限りで言うと、私の中ではこの試合、ゴルドー選手の判定勝ちですね。

どちらが強いのか? 

明らかにゴルドー選手のほうでしょう。リングを引き上げていく、ゴルドー選手の憮然とした表情が語ってますもん。

お前とは付き合ってらんねーよ!と。

バーリ・トゥードって言ったって日本だろう? いくらブック無しだと言っても、そこまでガチでやるこたぁねえじゃないか。てめぇの自業自得だからな!

「おイタが過ぎる」とまでは言わないでしょうが、ゴルドー選手にしてみればそんな感じの試合だったのではないかと。

勿論、千載一遇のチャンスに全身全霊を懸け、3試合を戦い抜いた中井選手の闘志には最大級の賛辞を送りたい。でも、前途有望な若者が、このバーリ・トゥードの一夜で得たものと失ったものを比べると、その落差に愕然とせざるを得ません。ファイターとして、まだまだ輝かしい未来が待っていたはずの若者だというのに。

だから嫌いなんですよ。バーリ・トゥードなんか。

こんなのエンターテインメントでもなければ、スポーツでも何でもない。公衆の面前で興行として披露してはイカん種類のものです。カネを貰って、本人達は好きでやってるんだからいいじゃないかと言うのなら、アングラでやってください。PPVの世界でも、コンテンツとしては完全に下火なんでしょう? 当然です。

まず、リアルファイトとバーリ・トゥードを混同してはいけないと思うんですよ。マウントとかパウンドとか、さすがの佐山もこの時期はブレましたね。修斗が自ら掲げたスポーツ性から、どんどん遠ざかることに気付かなかった。

どちらが強いかを、バーリ・トゥードで決めなければいけない必然性なんてどこにもないんですから。

もっと刺激が欲しい、もっと残酷なものが見たい。そんな観客の要求に応えていたら、行き着くところは格闘技でも何でもなくなります。聞いてみたらいい。オクタゴンにゴリラと人間でも入れたら満足ですか?って。

右目の視力は、ついに戻らなかった。

片眼を失明した中井祐樹が、選手生活を続けることは到底不可能だった。

まだ24歳だった。

後味が悪いにも程があります。やったもん勝ちを責められないような試合なんて、試合とは呼べませんよね。そんなの野っ原でやってくれって。もう1回言います。

だから嫌いなんですよ。バーリ・トゥードなんか。

※ 直感ですが、動画の2つめはガチをdisguiseしたブックでしょう? こんなのは好き。

以上  ふにやんま