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ふにやんま ー 世界の小所低所からー

http://funiyanma.hatenablog.com/  

『1984年のUWF』柳澤健 第24回「総合格闘技の夢」

 『1984年のUWF柳澤健 第24回「総合格闘技の夢」  

Number(ナンバー)916号[雑誌]

Number(ナンバー)916号[雑誌]

 

なんか繋がりが悪いなと思ったら、第23回「崩壊」が間にあるようです。雑誌『Number』本体の番号は抜けていないので、別冊か増刊かで掲載があるということでしょう。まあいいや。どうせ単行本になったら買うし。初見の内容が残っていたほうが楽しいし。

ということで1回分跳びます。申し訳ありません。

推測ですが、前回「崩壊」は新生UWF末期の金銭的なトラブルが中心だったようです。いきなり前田日明「5か月間の出場停止」が出てくるので、ポカンとしてしまいました。たしか神社長と前田が揉めて、マスコミに前田が内紛をブチまけたために、会社批判ということで前田が会社から出場停止処分を受けて怒り狂った、という経緯のはず。

しかしプロレス団体というのは、ファイトスタイルやポリシーといったイデオロギー的な衝突で解散することは絶対にありませんね。

まずお金。必ずお金。ひたすらお金

確かにレスラー側も悪いっちゃ悪いんですよ。フロントを擁護すると、基本的にプロレスラー(当時の。今は知りません)というのは金銭感覚が一般人と全く違う上に、社会常識が無い。売掛金・買掛金の概念なんか全く無いので、興行で入ってくる日銭を見て錯覚するんですね。すっげー儲かってんじゃん!と。

会社経営にはいろんな経費というものが伴うし、特に興行の世界では収入・支出の管理が極めて重要で、チケットの売り上げを鷲掴みにして持ち出されたら、ボクらとっても困るんです!(大仁田のことです)という簡単なことが分からない。

まあ、分かるようなら最初からプロレスラーになんてならないし、なったとしてもすぐ辞めてしまうでしょうけどね。みんながみんな、ライフプラン上の一通過点としてプロレスを認識していた節がある(私見です)馳浩 元大臣のようであっても、それはそれでファンとしてはつまらんのですが。

12月10日、UWF選手会は渋谷で記者会見を開き、翌年3月の旗揚げを目指して新会社を設立することと、日本衛星放送(WOWOW)がUWF選手会との契約を希望していることを明かにした。放映権料は年間5億円。 

歴史に残る「前田さん!上がってきてください」発言があった松本大会の直後、1990年12月時点では、UWFにはまだこんなに目があったんですね。WOWOWスポーツコンテンツの目玉ですよ。今なら考えられない好条件。

ここで一枚岩になって頑張ればいいのに、というのはあくまで一般人の考えで、プロレスラーは決してそうはなりません。

自分たちが血を流して、命がけでファイトしているからこそ、お金が入ってくる。

と考えている皆さんですから、

大金が入ってくるならば、その管理はフロントではなくレスラー主導でなされて然るべき。

とうことに必ずなるんですね。彼らのアタマの中では。プロレスラーだもの。みつを。

とにかく自分がエースであり、王様であり、絶対君主でないと気が済まない。まっとうな金銭感覚を持って、堅実に(相対的にですよ)現役時代を過ごせば、相当な蓄財も余生の安泰も、十分に実現可能なはずなんですが。そんなタイプはほとんどいません。

猪木が社長時代に残した借金を黙って完済し、自らの社長就任のあかつきには簿記まで習ったという坂口征二が輝いて見えます。実家は床屋さんらしいですね。きっと親御さんが堅実にお育てになったのでしょう。息子は芸能人だけど。

団体を越えて馬場にも信頼厚かった坂口征二。猪木の引退時(どの引退の事やら)には、言い値で退職金を用意したというのもまんざら嘘ではなさそう。いかん、UWFからどんどん離れていく。。。

年が明けて1月4日、UWFの選手全員を前田が集めた場で。のちにパンクラス社長となる尾崎允実氏の証言。

「前田は自分がUWFの社長になり、自分に絶対服従する人間をフロントに入れて、神と鈴木の代わりにするつもりだった 」

まあ、当然そう考えるでしょうね。エースですから。

意見を求められた私は『せっかくWOWOWが5億円を出してくれるんだから、ひとつにまとまったほうがいい』と言いました。

極めて常識的なアドバイス。しかし、違う絵を描き始めている奴が必ずいるのがプロレスの世界。

反論は出なかったけど、不服そうな顔をしているヤツはいましたね。宮戸と安生(洋二)、特に宮戸です。

宮戸は、神社長と鈴木専務が去ったあとのUWFを自分で仕切ろうと考えていた。複数の証言から、私はそう感じていました。

既に火種はあったんだと。宮戸ごとき(失礼)にも、色々吹き込む輩がいたんでしょう。

それでも、宮戸は前田に面と向かって文句を言う事はできず、結局、前田主導下で一致団結することが決まった。

上手くいくと思います?思いませんよね。アキラ兄さんですよ、あなた。

 話し合いが終わった翌日、前田から私のところに電話が入ったんです。

『俺は納得がいかない。一致団結していない。特に宮戸と安生が』と怒っていました。(中略)

私は前田に言いました。『もう結論は出たんだから、これ以上何もしないほうがいいよ』と。

でも、前田は私の忠告を聞かず、自分のマンションにもう一度選手たちを集めたんです。

その時歴史が動いた

アキラ兄さんが、下っ端の宮戸・安生ごときに反抗的な態度を取られて我慢できるはずもなく。自分が新・新生UWFの実権を完全に握ってから、宮戸や安生なんか干しちゃえばいいじゃんなどという、チンケな策略に決して思いが至らないのが、我らがアキラ兄さんであります。直情径行。みんな、そこが好きなんですけどね。 

あとは皆さんご承知のとおり。フェイクか本気か知りませんが(本連載だと前田のブラフ説を採用しています)前田が皆の前で「俺を信用できないならUWFは解散だ」とブチ切れて、取り返しのつかないことになってしまう。 前田は再度の話し合いの場を作ろうと模索しますが、各自がバラバラに動き始めて時すでに遅し。選手達の気持ちが、前田から既に離れていた証拠でしょう。

I'm all alone.

まさにひとりぼっちになってしまった前田日明クリス・ドールマンへの電話で漏らしたというこのひと言を、本当ならばタイトルにして欲しいところですが、実は今回、紙面の三分の二がリングスについてなんですね。欲しいなあ、前田日明のインタビュー。

リアル「グラップラー平直之の証言から。

僕がリングスでやった試合は全部ガチです。前田さんには感謝しかない。外部は八百長だの何だのと言うけど、前田さんがプロレスで集客してくれたからこそ、僕たちは大勢のお客さんの前で格闘技の試合ができたんです。

前田さんは格闘技が大好き。でもヒザが悪くてガチはもう無理だった。だから、いずれ立場がなくなっちゃうだろうな、と。全部こっち(リアルファイト)に変わるからです。 

WOWOWの支援を得て、UWFインターや藤原組よりも好スタートを切ったリングス。ヴォルク・ハン正道会館勢(佐竹雅昭角田信朗といった新たなスターを生んだと言っても、結局は前田人気の一本かぶり。前田の衰えと同時進行での人気の衰退は、旧来のプロレス団体となんら変わらないものでした。

それは仮に、UFCPRIDEK-1のような総合格闘技の新たな流れが無かったとしても、やはり不可避的なものだったと思います。

残念ながら、リングス以降の前田のファイトには興味がないです。

以上 ふにやんま

『追いかけるな』大人の流儀⑤ 伊集院静

 

追いかけるな 大人の流儀5

追いかけるな 大人の流儀5

 

ここ数カ月、電車やバスの中で席を譲られることが立て続けにありました。

白髪のうえ、頭がかなり薄いので、若い人には結構な高齢者に見えるのでしょうねえ。いずれも誠実そうな学生さんでした。

最近でこそ四の五の言わずに「ありがとうございます」と素直に座ることにしていますが、さすがに一番最初はショックで。耳を疑いましたね。

え? オレ? マジかよ?

僕はキミが想像しているよりも、多分ひと回り以上若いと思うよ。

そう伝えたくてたまらん。

悶々としているうちに電車は止まり、学生さんはホームへ降りようとしている。

彼にひとことだけ言いたい。いやダメだ。人の親切はありがたく頂戴するのが大人の男。彼に恥をかかせて何になる。ここは自制しなければ。

追いかけるな!

すいません、どうしてもやりたくて。

伊集院静氏のエッセイ『大人の流儀』シリーズの第五巻。現在、六巻まで刊行されております。遅れてますな私。

好き嫌いがはっきり分かれる作家ですが、私は好きです。でも、文章が誤解を招きやすいのは認めます。

回転寿司は寿司ではない、と書いたら協会から文句を言われた。"回転寿司こそ鮨の極致だ'' という作家を探して書いて貰え、と言った。

マキロイという若者が世界でトップというが、私はこの若者がまだ使えるボールを池に投げたのを見たし、今春、クラブを池に放った。人間がこしらえた道具をこういうふうに扱うバカは何十年経ってもまともな人間になれない。それが世界一というのだからプロゴルフの世界も程度が知れる。

敢えて苦節に身を置かねばならない年齢の若者が、スマホを後生大事に持って、暇があれば覗いている。バカナコトヲ......。

ツイッターフェイスブックも悪いとは言わないが、情報より大切なものが、人間が成長する時期にはあるだろう。

文脈を無視して抜粋すると、いくらでもキナ臭い感じに出来ますね。前後をキチンと読んで貰えれば、なるほど正論だと頷いて頂けると思うのですが。

まあ、このあたりは好みの差でしょうか。求めるものも違うでしょうし。

長く作家をされているかただけに、読者のネガティヴなレビューには類型があります。

◉弟の死、野球での挫折、前妻の病死、その後の荒れた生活と再起。同じネタの繰り返しで、もう聞き飽きた。

『大人の流儀』シリーズも、東日本大震災を契機に始まったもの。人の不幸で商売してばかり。

結構書いていてキツいのですが、半分当たりで半分ハズレ、といったところでしょうか。

『追いかけるな』とは、喪失に会えばその悲しみから容易に抜け出し得ない、人間の心根(こころね)を示した言葉だと思うのです。

追いかけるなと思うこと自体が、どうしても追いかけることをやめられない、ヒトの心の侭(まま)ならさを物語っている。

ヒトはそんなに強くなんかない。でも、そのアンビバレンスこそが人間なのだと。

かつて、私も近しい人を多く亡くしたが、もし私が、その哀しみの中に浸っていたら、私は今こうして文章を書くこともなかったろうと思う。生きることに哀しみがともなわない人生はどこにもない。哀しみに遭遇すると、人は、どうして自分だけが、あの人だけがと考えざるを得ない。しかし哀しみの時間に一人立っていても、そこから抜け出す先は見えない。決して忘れ得ぬことでも、それを追いかける行為は、人を切なくするばかりだ。

作家としてデビューして35年あまり。

愛しい人との別れを経ると、人の心はかくも傷つき、再び前を向くまでに、かくも時間がかかるものなのか。

こと伊集院氏のエッセイに関して言うならば、その魂の変遷を辿れるということだけで意味がある。そしてその魂の変遷こそが、まさに人生そのものだと思うのです。

山本周五郎氏の小説からの孫引き。

苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である。

大層な、前時代的な言葉だと思うでしょう?  私も昔はそう思いました。でも、今はこの言葉の意味が、おぼろげながら分かるようになってきました。

 

おじさん、何だか柄にもない事を語っちゃいました。でも、若いあなたにもきっと分かる日が来ると思うのです。

いつ頃分かるようになるのかって?

そうですね〜、電車で席を譲られる頃かなあ。

以上  ふにやんま

『佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?』竹内久美子×佐藤優

佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?』竹内久美子×佐藤優(2016) 

 "神ってる" エントリが続きます。 テーマだけですが。中身で神れよおい。それは無理。

佐藤優ほどの知性が、なんで「神様が実在する」なんて本気で信じられるのか、そこが信じられなかったんですよ。

のっけから遠慮なく突っ込む動物学者、竹内女史。何しろこちとら、リチャード・ドーキンス著『神は妄想である』を読み終えたばっかりですから、

こりゃ面白くなりそうじゃわい

と期待に胸が踊るじゃないですか。ところがどっこい、我らが優さん。神の存在を巡ってのガチンコ対決に、持っていく素振りすら見せません。 

ドーキンスの扱っている問題は、二百年前にキリスト教神学がすでに問題にしていますよ。そして百年前にほぼ解決がついている。

われら神学をやってきた人間からすると、ドーキンスの議論というのは、二十世紀の神学者カール・バルト以前の議論であって、すでに僕らから見ると解決済みとしか思えない。

シューン。序盤で聞きたい話が終わってるし。

それは一旦置いときまして、タイトルに沿った(あるいは勝手に期待した)熱い議論にならなかった理由は思うに二つ。

①竹内氏には、ちょっと荷が重かったのでは?

②宗教と科学の問題については、ことごとく優さんの中で既に解決済み。

まずから。

竹内氏の踏み込みが「科学」「宗教」いずれにおいても、もう一歩。優さんが食いついてくるような、新しい切り口というか、問題提起がない。残念ながら人選段階でミスマッチの感が否めず。ドーキンス=生物学、進化論といった連想に縛られ過ぎたのでは? 竹内氏が動物行動学で優秀なかたなのは分かるのですが・・・。

私の先生である日高敏隆先生は、

これが繰り返されて、ちょっとイラッとします。

自分の主張の傍証として、お師匠さんの成果や見解を持ち出す分には全然かまわないのですが、例証の選択と竹内氏による解釈があまり適確でないので、対談がスイングしないんですね。優さんが拾いきれずに話がブチッと途切れてしまう。あげくに、

ああ、こんなときに日高先生がいらしたらなあ。もっときっちり反論してくださるのに。

いや、それがあなたに求められた仕事だし!

もういいや。続いて

優さんは大人ですので、竹内氏への敬意を終始失わず、粛々と持論を展開していきます。本書、優さんの独白として読んだほうが失望感(一人で期待して一人で失望しているのですが)なしに楽しめます。

つまり人間が自分の力を超えるものに対して想定する神は、人間の願望や畏れの気持ちが投影された、いわば偶像ですよね。そういう神は、キリスト教神学でいう「神」ではないんですよ。にもかかわらず、いつの時代もそんな神が登場してくるために、そうした神という名の偶像をいかに排除するかが神学的な課題なんです。

世の中の人が考える神と、神学的な訓練を受けた人が考える神は全然違う。だから、竹内さんやドーキンスのように「そういう神は妄想でしょ」と言われれば「はい、その通りです」と言うしかないわけです。

へー、そうなんだ。知らなかった。なるほどねぇ。←雑なコメントのように見えますが、正直な感想ですのでお許しください。

本来はプロテスタントカトリックも科学を推奨しないですよ。神学的な立場からすると、科学的なものはすべて魔術に見える。(中略)

神学の立場では、森羅万象に神様の手が働いていると考えるのです。にもかかわらず、ある秘術を会得した場合には、誰がやっても同じ結果が出るでしょう。つまり、秘術も科学的方法も、神学からすれば同じ「魔術」ということになる。

面白い言い回し。語り口にサービス精神を感じます。

キリスト教はいい加減な宗教ですし、聖書には矛盾がある。だからこそ二千年以上、時代の変化に耐えて、長持ちしてきたんです。

『聖書』には、到底できないことを基準として掲げることによって、全員がそれを守れない罪びとであることを認識させるわけです。自分たちの社会は罪びとたちの共同体だと認識させることに主眼があるわけですから。

ドーキンスが言うように、宗教の中に危険性、狂気というものがあるというのは実にそのとおりで、全然間違っていない。ただそれを除去しても、同じ狂気が「半宗教」とか「非宗教」というかたちで必ず出てくる。

大学の教壇に立つ現役の神学者でありながら、この客観的なスタンス。「神学者ありながら」ではなく「神学者あればこそ」かな。

余談ですが、優さんが自分の講義への参加者を神学部の院生だけに限定しているというのも分かります。有名人なので受講希望者が多いのは当然ですが、神学と縁もゆかりもない私ですら、一度話を聞いてみたいっと思いますもん。

竹内 その神との関係って、佐藤さんの場合はお母さんからも自動的に受け継いじゃってるわけですよね?

佐藤 自分ではそう思ってるんだけども、実は生まれる前から決まってたんでしょうね。なんでこんなキリスト教みたいな因業(いんごう)なものと付き合ってしまったのか。自分でも納得できないですよ。

竹内 あらら。神学を学んだ佐藤さんにして、その思いはあるんですか。

佐藤 そりゃそうです。こんなもの、できれば御縁がないほうがいいに決まってますよ。

竹内 えー!

佐藤 キリスト教との御縁さえなけりゃ、外務省でだってもう少し不真面目に生きることもできた。 

同志社大学神学部へ入学し、洗礼を受けて大学院まで出たカルヴァン派信徒(受洗して初めて母君と同じ宗派だと知ったそうです)が、よりによってキリスト教「因業」とな!

ここは笑いました。きっとかつてのソ連や外務省や検察よりも、キリスト教のほうが優さんにとっては「因業」なのでしょうね。実に優さんらしくて良いです。この貴重なやり取りを引き出した竹内氏にも拍手。

政治・経済全般に通じた、いつもの優さん節も存分に。引用は一つしか出来ませんが。

六〇年代以降は自由主義プロテスタンティズムも消えて、アメリカは神学不毛の地になってしまいました。これ、実はマッカーシズムの影響なんですよ。(中略)

キリスト教神学って、今までのお話でもお分かりのようにマルクス主義と相性がいいんです。歴史は正しい方向へ進んでいると考えるからです。特にプロテスタンティズムとはね。ところがマッカーシズムによって反知性主義が入ってきたがために、それが下火になるまでの十年間ほどは、ヨーロッパ大陸で展開された、マルクス主義との理論的な対話というような議論ができなくなったわけです。

その代わり、何でも数字に還元していく実証主義、自然科学系に流れてしまったわけです。神学ばかりでなく、人文科学や哲学の分野でも何も生まれなくなってしまった。

なるほど。アメリカにおける反知性主義、Anti inntellectualismというやつね(英語で言い換えただけじゃん)。時節柄、身に染みるなあ。

本書の最終章(第5章)のまさに終盤にて。

竹内さんは自分の専門は動物行動学だと思ってるでしょうけど、僕は著作を読みはじめたときから、この人は哲学用語でいう「存在論」をやっているとピンときました。

竹内さんの強味は、動物行動の具体的なエピソードを語っていても、必ず普遍理論化のためなわけですよね。僕の場合、恋愛とかセックスの話題に関心があっても、エピソード主義にとどまって、その先の理論化に関心がないんですよ。逆に経済の話になると、みんなが関心の高い儲け話には興味がなくて、その背後にある資本主義メカニズムに関心がいきますが。

対談相手の著作には事前に目を通し、きちんと理解しておくのが当然という優さんの姿勢がいいじゃないですか。フィナーレ前の儀礼的なエールの交換に終わらせず、きっちり自己流の洞察を交えてくるところに懐の深さを感じます。

他の優さんの多くの著作同様、読みごたえは十分な本書ではありますが、『神は妄想である』の読み方について、

さすが優さん

と唸らされた部分を最後に。

私はこの対談を通じてドーキンスに対する偏見はだいぶなくなりました。あれだけ神に徹底的に反発するというのは、神という問題圏について真剣に考えているからで、それはつまり人間について一生懸命考えているからでしょう。だから彼は怒る。なぜ人間を虚心坦懐に見ないで、これだけ捻じ曲げて神なんていう変なものをつくるんだ。そのおかげで、どれだけの人が殺し合いをして、人生を間違えて苦しんだか、だから神を除去しなければ、と言いたいわけですね。イギリス的なニヒリズムではなく、ヒューマニズムから考えている人だとわかった。

そう、そうなんだよ優さん!それが言って欲しかった!

頸椎を捻挫するぐらい、ブンブンと何度も頷いてしまいました。

ドーキンスを衝き動かすものは、ニヒリズムではなくヒューマニズムである。

神学者でありながら攻撃的無神論に惑わされず、これを看破する優さんはやっぱり凄いですわ。

以上 ふにやんま

『神は妄想である』リチャード・ドーキンス

『神は妄想である」リチャード・ドーキンス(2007)

原題:THE GOD DELUSION   ーRichard  Dawkinsー

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

 

お正月なので、おじさん難しい本読んじゃいました。

利己的な遺伝子で世界を驚かせた(多分)リチャード・ドーキンス氏の意欲作。年末年始に読もうと、9月に買ってから寝かせておいた甲斐があったというものです。私ごときの理解が到底及ぶところではない大著なので、気楽に紹介しますね。

掛け値無しに面白い!

欧米の(他は知らない。他も、か)一流の科学者というのは、専門分野を問わず、

◇自然科学 

◇社会科学 

◇人文科学 

の基礎教養の深さが段違いだと痛感させられます。大したもんです。お前が言うな。

ドーキンス氏、元々は生物学者なんですよね。学術的には完全にオリジナルではないそうですが、一般大衆に利己的な遺伝子の考え方を広めただけでなく、ネット上で今よく使われるミームの概念もこの人からなのだそうで。 お前が言うな。まだなんも言ってないって。

現代の生物学は進化論に拠って立つ部分が大きいだけに、聖書的(キリスト教原理主義的)見解との衝突が永らく避けがたかったのでしょう。世の生物学者の大方は、「神は不可知の領域にある」「宗教と科学はすみ分け可能」って言っときゃいいじゃん!とやり過ごしているはず。そこは喧嘩してもしゃーないでしょと。まあ、大人な態度ですな。

いっぽうドーキンス氏。さすが オックスフォード大学 "科学的精神普及のための寄付講座” 初代教授。※著者紹介文なんだから、講座名から"寄付"は省いてもよかったのでは・・・。真っ向勝負で宗教への科学的批判に挑みます。"考証"とは敢えて言いません。もっと苛烈なものなので。

弁護士のウェンディ・カミナーはかつて、宗教をからかうのは、米国在郷軍人会館のなかで国旗を燃やすのと同じほど危険であると述べたが、この言葉は現実をほんのわずかに誇張にしているに過ぎない。今日のアメリカにおける無神論者の社会的地位は、五〇年前の同性愛者の立場とほとんど同じである。

アメリカのほとんど信じがたい宗教的な風土については垂水雄二氏が「訳者あとがき」で上手くまとめてくれています。なお垂水氏は利己的な遺伝子の訳者でもあるので、とてもよく出来た日本語版になっています。原文読んでないくせに何故分かるんや!と。さーせん。

たとえば中絶医が原理主義者によって射殺されるとか、あらゆるチャンネルでテレビ伝道師が人気を得ているとか、医者にかかるのをやめて祈りで病気を治せと宣伝する牧師に反対するデモをしようとした人が警官に保護を求めたら反対に、そんなデモはつぶしてやると言われたとかの話

米国では公教育を拒否して、宗教学校で学ぶことが認められており、そこでは進化論を信じない子供たちが育てられている(おそるべきことに米国国民のなかで科学的な進化論を信じている人は、10%にも満たない)

テレビ伝道師が番組中で多額の寄付を公然と呼びかけ、大統領(ブッシュ/ジュニアは原理主義者を公言)の毎週月曜朝の相談役になり、創造論インテリジェント・デザイン論者が学校教育にまで介入してくるアメリカ社会。そこで論文ではなく一般大衆に向けた宗教批判を出版することのリスク。容易に想像がつきます。

古くは十字軍から魔女裁判、9・11やヨーロッパ各地のテロと、その報復としての軍事介入に至るまで、宗教上の正当性を謳い始めた時に、人が最も残虐になれるのは何故なのか?

宗教に染まった世界を実害のあるものとして、ドーキンス氏は激しく徹底的に批判します。これも「訳者あとがき」から。

哲学的・科学的・聖書解釈的・社会的、その他あらゆる側面から、神を信じるべき根拠をつぶしていき、どこにも逃げ場を与えない。

なんか訳者に頼ってばかりですが、中身が重厚過ぎてバシッと要約しにくいのですよ。新年から力不足を痛感させられるなー。

ざっくり言うと、本書前半(4章まで)が「神は存在しないこと」への科学的検証、後半が「なぜあらゆる時代と地域における人間集団が全て宗教を持つのか」についての社会人類学的な考察 となっています。おそらく。あってます?

前者はインテリジェント・デザイン論に対抗すべく進化論と宇宙物理学が、後者は道徳的根拠としての宗教必須論に対して道徳哲学、社会学、教育学的な論証がそれぞれ武器に使われます。

このあたりの学際的な反証と言うんですか、宗教信仰者が繰り出すと思われる仮想の(これまで散々言われてきた事のようですが)問いを、広汎な科学的事実と論理を以てしらみつぶしに打ち破っていく様が、まこと圧巻であります。

◎ユーモアがなにげに達者である

◎子どもに与える宗教の深刻な害悪について真剣である(完全に怒ってます)

◎妙にイケメンである(画像検索して反りましたね。俳優かよ!)

イケメンはどうでもいいとして(プロモーションに活用しなかったのかな? ケリー・マクゴニガル女史とか、表紙の写真が大き過ぎだっ!ちゅうぐらい美貌を活かしてるのに)私、完全にドーキンスファンになりました。

以下、めちゃめちゃいっぱいある好きなところから抜粋です。

神はサイコロを振らない」は「すべての事柄の核心に偶然性(ランダムネス)が横たわっているわけではない」と翻訳されるべきである。

アインシュタインの名言については、相当数が取り上げられています。彼があまりにも有名なために、有神論者が前後の文脈を無視して、あるいは彼の真意を理解せずに引用しまくっていると。

何についても、あるものや事柄が存在しないと決定的な形で証明するのは不可能なことを考えれば、神の存在を証明できなくてもいいわけだし、それは瑣末なことでもある。問題は、神が反証可能(神が存在しない)かどうかではなく、神の存在がありえるかどうか(蓋然性)なのである。問題がまったく別物なのだ。ある種の反証不能な事柄は、他の反証不能な事柄よりもはるかにありえないと、分別によって判定される。蓋然性のスペクトラムに沿って考えるという原則から神だけを除外すべき理由はどこにもない。

 ダーウインおよび彼の後継者たちは、目を見張るような統計学的ありえなさと、設計されたようにしか見えない生物が、単純な発端からいかにして、ゆっくりと段階を経ながら進化してきたかを示してきた。生物に見られる設計(デザイン)という錯覚はまさに錯覚でしかない

もし、この章での議論が受け入れられれば、宗教の事実上の根拠神がいるという仮説はもちこたえることができない。神はほぼまちがいなく存在しない。

科学者らしい見事な啖呵をきりますねぇ。かっこいい!

「多様性」という祭壇に、宗教的伝統の多様性を保存するという名目で誰かを、とくに子供を生け贄に捧げることについては、なにかしら愕然とするほど尊大であると同時に、非人間的なものがある。 

小さな子供がいずれかの特定の宗教に属しているというラベルを貼られているのを耳にしたときに、私たちの誰もが顔をしかめるようであるべきだと、私は思うのだ。

補足が必要ですね。筆者は「カトリック教徒の子供」「ユダヤ教徒の子供」といった宗教的ラベルを子供に貼り付けるのは間違いだと。それは4歳の子供に「ケインズ主義者の子供」「マルクス主義者の子供」とキャプションを打つのと何ら変わらないことなんだよと。なんて的確な喩え。

全ての子供は「~教徒の子供」という呼び方ではなく、「~教徒の親を持つ子供」だと呼ばれるべきだと。宗教とは、物事を自分で決められるようになってから、選んだり拒絶したりできるものだと教えなくてはならないのだと。

失敗した。もっと早く読んでおくべき本でした。

最後にアインシュタインの美しい名言を孫引き。

私は人格神を想像しようとは思わない。世界の構造が私たちの不完全な五感で察知することを許してくれる範囲で、その前に立ち、畏怖の念に打たれるだけで十分だ。

以上 ふにやんま 

『虚人魁人-国際暗黒プロデューサーの自伝-』康芳夫

『虚人魁人-国際暗黒プロデューサーの自伝-』康芳夫(2005)

虚人魁人康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝

虚人魁人康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝

 

前々回に紹介した『虚人のすすめ』ですが、本書と内容が丸被りでした。内容的には本書『虚人魁人』『虚人のすすめ』を完全にincluse(包含)する形ですので、本書を読めば『虚人のすすめ』を読む必要は殆どありません。申し訳ございませんでした。

ただし私のような極度のもの好きは、その限りにあらずで。

funiyanma.hatenablog.com

康氏の経歴その他は過去エントリと重複しますので省きますが、本書の「推し」はなんと言っても 、

人食いトラ対極真空手

虎と空手武道家の死闘ショー 

の件(くだり)。聞いただけで顔をしかめるかたもあろうかと思いますが、この話チョー面白い上に、「虚人のすすめ」では完全にカットされていました。10年の歳月が、こういった荒唐無稽の、いささか道義的に疑問符が付くようなアイデアへの許容度を変えてしまったのではないか。。。あらためて本書を推薦する所以であります。キリッ。嘘っぽいな。「ただの面白がりでは疑惑」浮上。

真面目な話、野生動物は強いらしいです。 かの大山倍達氏が著書の中でそう述べておられました。もう持ってませんが、たしかこの本です。よく覚えているでしょう? 

大山空手もし戦わば (1979年)

大山空手もし戦わば (1979年)

 

大山倍達氏曰く。記憶から引用。間違ってたらどなたか教えてくださいね。覚えてないじゃん。

野生動物は強い。命懸けの局面では、その強さは更に倍化される。密室の家屋の中なら、人間は日本刀を持ってやっと野生の犬と互角だろう。

鶏や猫も、決して侮ることなかれとまで説く大山氏。すごいよゴッドハンド!そんなことまで考えていたのか! この事実を十分に頭に入れてから考えてみてくださいね。

素手で虎と闘う

無茶です。かの "牛殺し” 大山氏でも、絶対に選ばなかったであろう対戦相手。それを真剣に実現にこぎつけようとした康芳夫氏。ダメだ面白すぎるっ。メートル(死語)上がりまくりっ!

国士舘大学 空手部師範(当時)山元 守氏

「康先生、私はどんなものが相手でも、空手で倒す自信がありますよ。康先生が準備してくれたらトラとだって闘ってもいい。絶対、一撃で殺してみせます」。

うわーっ。こいつマス大山の本読んでないのかよ。まして相手は康芳夫氏。死亡フラグ立てて一人でビーチフラッグやるようなもんじゃん。絶対長生きしないぞっ。

この発言、実は国士舘大学空手部の忘年会で交わされたもの。この時のエピソードがまた秀逸。ちなみに康氏は山元氏に興味があっただけで、国士舘大学とも空手部とも全く関係がなく、客として招待された身であります。

私が忘年会の会場に出向くと、両側にいかにも狂暴そうな顔と体格をした連中が二〇人ずつまっ黒の詰襟を着て整列している。その間を歩くと「オッス!」といっせいにドスのきいた声が響きわたる。私が中央の上座に座ると、その後しばらくして山元師範が入ってきた。

すると、何と彼はその両側に並んだ連中たちをボカボカと本気で殴りながら入ってくるのだ。

殴られた部員たちは血を流しながら必死で体勢を立て直し、顔を正面に向け「オッス!」と大声で答える。両サイドにいる約四〇人の頭や顔を本気でぶん殴り、山元守は私の横にどっかと座ったのだ。

しかもその後「何故殴ったのか」の説明なし。 腹痛い。

康氏の “受け” もまた凄いです。

私も山元をにらみかえし、じっと彼の眼を見ながらこう言った。「本当か。そうか、よし、やろう。これは命がけの世紀の対戦だ。君が素手でトラと闘うなら三〇〇〇万円出そう。ただし、いっさいのインチキはなしだ。武器は何も持たず、素手で闘うのが条件だ。トラも本物で何も細工しない。死んでも補償はしないがいいか」。

当時の三〇〇〇万円はいまの一億五〇〇〇万円以上の価値があるだろう。彼が本気ならそれぐらいやってもいい。私は迷わず彼に提示した。 

いや迷えよ。 ギャラの問題じゃないし。

世の中的に、こういったキワモノ企画への受容性がまだまだあったんですね。

案の定、この計画を大々的に記者発表したとたん、日本では東映がドキュメンタリー映画として制作したい、と申し入れてきた。 

大ヒット映画「地上最強の空手」公開が1975年、このトラの話が1977年ですから、東映が食いついてきたのも分かります。ちなみに山元師範、大山倍達氏の直弟子、それも高弟だったそうで。

見かけ倒しだったら、トラを見て逃げ出してしまうかもしれない。私はそのあたりを極真会館総裁の大山倍達に、直接電話で聞いた。すると彼は私に「山元は強い。ホントに強い。もし俺が彼とやったら俺が負けるかもしれんよ」

続いて同じように彼の実力を危惧して、稽古合宿に同伴した東映のプロデューサーからの電話。

「康さん、びっくりしました。やつはすごい、すごいですよ。やっぱり本物ですよ。練習であの獰猛なドーベルマンをたったの一撃で殺しちゃったんですよ。一発、眉間に拳を入れたら、ドーベルマンがぎゃふんと跳ねあがって 白目をむいてしまった。これはいけますよ」

今なら「ドーベルマンが可哀想」の大合唱で、稽古自体が即刻中止でしょう。

何はともあれ、実力はお墨付きの空手家ということで、本格的に動き出す康氏。

NBCがさっそくTV衛星による全世界への放映権を申し込んできていた。(中略)いまなら約七五億円ほどという巨額の放映料だ。 

「おいしいとこだけ、さらえばいいじゃん」「主催じゃないから責任ないし」何を期待しているのかモロ分かりのオファー。これが興行の世界と言えばそれまでですが。

これだけ危険が予想される試合?になると、当然問題が浮上します。

◉開催の許可を出してくれる国が無い

これは当時、世界中でブームとなって支部を拡大していた極真会館の全面協力で解決されます。すごいぞ極真!一枚岩だ!(現状への皮肉ではありません)

でですね、ここからが目茶目茶に面白いのですが、さすがにネタバレなので詳細は控えます。ノンフィクションにネタバレがあるのか?という高尚な議論になりそうですが(ならんって)、ヘッダーだけ引用しますので流れを想像してみてください。

特注フェンスのリング

山元の頬が引きつる

トラの爪は出刃包丁

 ブリジッド・バルドーの介入

 結論:虎すげー

装丁の写真から既に「只者ではない」感を漂わせる、かの康芳夫氏も霞む 虎の凄さ

やはりゴッドハンド・大山倍達氏の言われる事に間違いはないのでした。

「野生動物をね、侮ってはいかんよキミぃ」

以上 ふにやんま

『1984年のUWF』柳澤健 第22回「リアルファイト」

『1984年のUWF柳澤健  第22回「リアルファイト」 

今号はUWFと袂を分かって後の佐山「修斗の回です。

修斗って、今盛んなのでしょうか?全然関心が無いので、見当もつきません。

アマチュアの大会は北海道から沖縄まで全国各地で開催され、毎年50人ほどがプロに昇格している。世界各国への普及も進み、現在では20以上の国と地域で公式戦で行われている。

そうなんだー。競技人口とかどのくらいで、果たして増えているのかな? 修斗がルール上、多大な影響を与えたUFC、ひいてはMMAという流れの中での貢献は認めるものの、リアル格闘技としての魅力においてはイマイチだったんでしょう?

初期のUFCについて。

広く普及させるためには、スポーツとして確立された総合格闘技に生まれ変わることが必要だった。

その際に参考にしたのが修斗である。

オープンフィンガーグローブを着用し、5分3ラウンドという試合時間も、体重別の階級も、すべて修斗を模倣した。 

スポーツとして生まれ変わった結果、UFCは大ブレークを果たし、修斗よりも遥かに大きなプロモーションとなったのは皮肉だが。

 冒頭のこの一文で、今回は内容的には完結しております。あとは面白いネタが特には盛り込まれておらず、1回休み状態なのが惜しいところ。

現在でも、修斗のジムには佐山聡が書いた「修斗の理念」が掲げられている。 

そうか、なんか追放みたいな形で報道されていたけど、佐山は「修斗創始者」として認められているんだ、良かった良かった。とか、

先生の言い回しは独特の感性があって難しい。一見、理論的なようで実は抽象的。でも、先生が技の見本を見せると、やっぱり凄い。しかも、見た瞬間にパッとできちゃう。知らない技でも、ああ、こういうシステムねと一瞬で理解する。ホントの天才っているんだな、と思いました。 

 (初代シューターにして元ライト級王者、坂本一弘氏による佐山評)

弟子の発言とは言え、やっぱり見る人が見ても佐山は天才なんだ!とか、佐山ファンとしては 正月のお酒も旨くならずにいられませんわ 的な発見や再確認は所々に見られるものの、です。

そうそう、さもありなん、という価値ある証言が一つありました。

そんな佐山のところに、新生UWFからのオファーがあった、と証言するのは前述の坂本一弘である。(中略)

UWFから連絡があった。佐山さんに戻ってきてほしい、また一緒にやりましょうと言われた。だけど、俺は絶対にやらないから』

佐山先生ははっきりと言いました。いま思えば『俺はシューティングをやる!』という意思表示でしょうね。

理想主義者で、決めたことは徹底的にやり抜かないと気が済まない。己の信念を現実化することに、金銭以上の意義を見出すタイプの佐山としては(個人的には何も知らんくせに、力強く言い切る私)当然の帰結でしょう。

ワンサイドで裏の取れていない証言ではありますが、新生UWFがその人気絶頂期に、おそらく苦境に喘いでいると世間から思われていたであろう佐山に声をかけたというのは、如何にもありそうな話。

しかしこの時期の新生UWF「エースは前田」で決まっていました。実力的に双璧をなすのが藤原喜明で、この二人が頭ひとつ抜けた存在、という序列がファンの間の暗黙の了解でしたから、佐山をどういったポジションに置くつもりだったのか、興味のあるところです。

「前田最強」を裏付ける為の噛ませ犬 として、スポット参戦させるのが狙いだったのか?

前田と藤原の対戦は極端に少なく、 UWF日本人選手内の実力№1は誰なのか?を知りたいという、ファンの期待に応える材料は極端に不足していました。日本人同士の刺激的なカードが組みたかったのか?ついそういった邪推をしてしまいます。

そういえば前田と藤原の数少ないシングル対決(タッグなんて無いか)は、いつも藤原の関節で紙一重で決まるという、なかなか苦しいシナリオでしたね。前田ファンにしてみれば「あー惜しかった。もう一歩のところまで追い込んだのに」「やっぱり関節はすげーな」と思って会場を後にする。まあUWFサイドの思惑どおりと言うことかと。

なんかこの回以降、佐山はもう出てこないことになるのかなー。それはそれで寂しい。

 UWFの物語、果たしてどこまでいって完結するつもりなのか。インター鈴木取締役の1億円トーナメント事件とか、前田と安生の舌戦とか、なんだか下卑た方向に厚めに行かないといいけどな、とやや懸念。

以上 ふにやんま

『虚人のすすめ-無秩序(カオス)を生き抜け-』 康 芳夫

『虚人のすすめ-無秩序(カオス)を生き抜け-』 康 芳夫(2009)

世のなかには変わった人がいるもんだなと。失礼ながら動物園かお化け屋敷か。怖いもの見たさが止められず。魑魅魍魎が跋扈する興行の世界。辣腕の「呼び屋」として鳴らしてきた康 芳夫(こう よしお)氏。 ちなみに氏の容貌も「異形」と称する他ない迫力ですが、それは置きまして。本書の著者紹介から。

東京大学卒業。イベントプロデューサー。在学中から大物ジャズプレーヤーの呼び屋として活躍。モハメド・アリ招聘からネッシーオリバー君など珍奇でセンセーショナルなイベントを仕掛け世を騒がしてきた鬼才である。また、出版では戦後最大の奇書『家畜人ヤプー』をプロデュース。

これだけでも怪しさ満点ですが、アラビア大魔法団」「インディ500マイルレース」「トム・ジョーンズ等の興行開催に加え、モハメド・アリの場合はボクシングの試合だけでなく、後の猪木vsアリ戦でもアリとの個人的なパイプを買われて招聘アドバイザーを務めています。

さらに驚くべきことには、ウガンダのあのアミン大統領と猪木の対戦、しかもレフリーはモハメド・アリという世界が震撼するようなカード(って言うのかな?)を合意・契約・記者会見までこぎつけた男。

冗談みたいな話ですが、この対戦、ウガンダのクーデターが無かったら本当に実現していたはず。アメリカの三大ネットワーク局であるNBCと生中継の契約を締結。東京12チャンネルとは仮契約までいったと本書にあります。猪木もアリも記者会見まで行っていますので、事実無根という事はないでしょう。あなおそろしや。さすが自称

全地球を睥睨するスフィンクス

各イベントにまつわる業界の裏話だけで十分に楽しめますが、これだけの怪人(ショッカーかっ)になると、言葉の端々に光るものがあります。

私の見立てでは、思想家や哲学者になる人間は資質的にたいがいベタな現実感覚や実践力を持ちえないという弱さをカバーするために、ロマンと観念で世界をとらえる術をこの世をしのいでいく至高の武器として仕立てたような人が多いのだ。 

しかし観念だけで世界を作っていくと、そこはある面、壮大なほど滑稽な錯覚が生じる。ドイツ観念主義やそこから派生したマルクス主義のみじめな敗退はそのことを雄弁に物語っている。  

言葉というのは容易に詐術がはかれる格好の道具である。何不自由なく育った裕福なお坊ちゃん先生が安全地帯にいながら、あたかも地獄を経験してきたかのような辛辣な思想を語れてしまう。

前後の文脈が無いので誤解されそうですが、筆者のスタンスはいわゆる反知性主義とはちょっと違います。下の一文が筆者の趣旨をよく表しているかと。

現代人の脆さや虚弱さは、「知本位制」の社会によって我々の存在の成り立ちが知識人のそれのように抽象化してきたことにもよっていること。

要はその自覚が必要だと。知性と深い洞察力を備えたかただと感心させられました。本書の中ではあまり注目されない部分かとは思いますが。

「ボリショイサーカス」「謎の類人猿オリバー君」「ネッシー探検隊」(なんと石原慎太郎隊長)など、ルーツはここにあったのか!という興行の戦後史のような本書。

筆者が怒らせた力道山が、カウンターの上のビール瓶の口を手刀で(いわゆる空手チョップです)叩き割ったり、アリ招聘の為にイスラム教に入信(筆者はその為だけではないとして、ムスリムとしての純粋な信仰心についても語っていますが)したりと、破天荒そのものの一冊。あの梶原一騎氏をすら上回る波乱万丈ぶりに、目が回ります。

宮殿の大統領執務室で会ったアミンは私がこれまで会ったことのない人間であった。人の形をしながらその中に入っているのは何か得体の知れないものなのだ。まるで魔界の住人のようなオーラを巨体から不気味に漂わせている。ブラック・ヒトラー」と称されるカリスマ性がどこから来るものなのか、私はそれなりに納得がいった。

怪人を上回ったのか!魔人。魔人サイドの感想も聞いてみたいところですが。ちなみにこのくだりの続きは、気の弱い方は飛ばされたほうがいいです。念のため。

虚人はタブーを打ち破ってこそ虚人なのだ。毒は虚人にとって甘い蜜であり強烈な陶酔をもたらす麻薬なのだ。 

断崖を野原のように歩く。

クラクラするような一冊のご紹介でした。

なお筆者は79歳で、メルマガもブログも現役のようです。

以上 ふにやんま