ふにやんま ー 世界の小所低所からー

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文豪あれこれ:その② 鴎外と脚気

漱石、鴎外について書くという重圧から早く逃

れるため、2夜連続放映でお送りします。

 

鴎外派の私としては、カッコよく鴎外諸作品の

解説などから始め、広い知識と深い読解に基づ

く新解釈、などを披露したいと思いましたが、

無理です。

 

なので(すいません、簡単に済ませました)

今日は、文学好きにもあまり知られていない

と思われる、「鴎外と脚気」についてのお話。

いやー、タイトルを「文豪あれこれ」にして

おいて正解でした。

 

森鴎外がまだ本名:森林太郎君だけを名乗って

いた幼少時、彼は日本でトップクラスの秀才、

神童でした。

藩医家の嫡男として、幼い頃から論語孟子オランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新に家族と周囲から将来を期待されることになった。 

1873年(明治6年)11月、入校試問を受け、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学(新入生71名。のちに首席で卒業する三浦守治も同時期に入学)

定員30人の本科に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長に就いて漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩・漢文に傾倒し、和歌を作っていた。 出所:森鴎外 - Wikipedia

 

平たく言うと東京大学予科に、史上最年少で

入学した訳ですよ。だって2歳もサバを読む

なんて、この年齢ではありえないでしょう。

でもって近代西洋医学を学ぶと同時に、漢方

や文学まで同時に修めてしまう。

すごい能力と意欲です。

私が威張っても仕方ないんですが。

漢方は、藩医の家系に染みついた嗜みだった

のでしょうね。偉いぞ、林太郎君。

 

漱石と同じく、ド秀才だった林太郎君もさすが

に2歳のハンデはいかんともしがたかったのか

卒業時は首席ではなく8番だったそうです。

それでも8番です。鴎外すご過ぎ。

 

ものすごく端折りますが、鴎外は森林太郎

として1907年、陸軍軍医のトップ、陸軍軍医

総監まで昇りつめます。

軍医総監は陸軍では中将にあたりますから、

組織的には、上にはもう陸軍大将一人しか

いません。

当時 陸軍大将は、内閣総理大臣枢密院議長

と同格でしたから、中将が階級として如何に

高いか分かろうというもの。

鴎外、軍医としても壮絶に偉かったんです。

 

陸軍軍医の最高峰に身を置いた鴎外に、生涯に

わたって付きまとったのが脚気問題でした。

ちなみに脚気はビタミンB1欠乏症。

今でこそ、ハンマーで脛でも叩いておけば治る

ような大したことない病気に思えますが

(それは検査ですね)、

昭和初期まで、日本では死者が出ていました。

栄養学的な、国民病でもあったのです。

 

鴎外の現役時代には、「ビタミン」の考え方

自体がまだ無かったので、脚気は原因不明の

病気とされ、諸説入り乱れた論争が展開され

ていました。

 

「因果関係がはっきりしなくても、効果があれ

採用する」という実証主義に基づき、既に

日清戦争以前に麦飯を導入した海軍では、

脚気の発症率は激減していました。


ところが陸軍兵士の健康管理、糧食決定の

トップである鴎外は陸軍は食物説を否定、

感染症説に拘泥した事で脚気の蔓延を防げ

なかった、という批判が今でも残っています。

 

日露戦争では陸軍兵士約25万人の脚気患者が

発生し、約2万7千人が死亡したそうですか

ら、「たかが脚気」では済まされません。

出征して戦死すら出来ず、脚気で亡くなった

兵士の無念たるやいかに、という話です。

 

このあたり、wikipediaにもかなり詳しい記載が

ありますが、文章が固いので下のブログを

ご参照ください。

出所:kyowanannohi.blog.fc2.com

 抜粋します。

 しかし陸軍ではその後の日露戦争時にいたっても改善されなかったのです。「日本男児は白米を食べないと力がでない」などといって陸軍の兵食はあくまでも白米と譲りませんでした。当時は麦飯は貧民の食事として蔑まれており、白米飯は庶民あこがれのご馳走であったからです。


 また部隊長の多くも死地に行かせる兵士に「白米を食べさせたい」という心情もありました。当時の貧しい生活からようやく白米にありつけた一般兵士にとっては士気にも関わる大問題であったわけですが、それで死んでしまうなんて一種の贅沢病に近いのではないでしょうか 

 Suzukiumetaro.jpg鈴木梅太郎(左画像)が米糠からオリザニンビタミンB1)を発見したのちも、鴎外は一貫して細菌説に固執します。そして、その筆力をもって栄養説を批判し、鈴木を罵倒する論文をたびたび発表しました。森鴎外は研究の趨勢が栄養説にほぼ決しても、死ぬまでこれを認めず、細菌説を主張し続けました。

 

特に引用の下段の事実から、鴎外は脚気問題で

は批判されがちです。

「エリートのプライドと面子にこだわるあまり

、大勢の兵士を至らしめた」と。

一方で、鴎外擁護論も勿論あります、という

が鴎外「脚気問題」のあらましです。

※ 擁護論のほうも、下に引用しておきます。

脚気問題について鷗外は、陸軍省医務局長に就任した直後から、臨時脚気病調査会の創設(1908年・明治41年)に動いた。

脚気の原因解明を目的としたその調査会は、陸軍大臣の監督する国家機関として、多くの研究者が招聘され、多額の予算(陸軍費)がつぎ込まれた。予算に制約がある中、「脚気ビタミン欠乏説」がほぼ確定して廃止(1924年・大正13年)されたものの、その後の脚気病研究会の母体となった。鷗外が創設に動いた臨時脚気病調査会は、脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたと位置づける見解がある。

鷗外を擁護するものとして、以下の見解がある。
陸軍の脚気惨害の責任について、戦時下で陸軍の衛生に関する総責任をおう大本営陸軍部の野戦衛生長官(日清戦争・石黒忠悳、日露戦争・小池正直)ではなく、隷下の一軍医部長を矢面に立たせることへの疑問。
鷗外が白米飯を擁護したことが陸軍の脚気惨害を助長したという批判については、日露戦争当時、麦飯派の寺内正毅が陸軍大臣であった(麦飯を主張する軍医部長がいた)にもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。

(中略)
鷗外の「陸軍兵食試験」が脚気発生を助長したとの批判については、兵食試験の内容(当時の栄養学にもとづく栄養試験であり、脚気問題と無関係の試験)を上官の石黒にゆがめられたためとの見解を示した。

以上を端的にいえば、鷗外が脚気問題で批判される多くは筋違いとの見解である。 出所:森鴎外 - Wikipedia

 

さすがに鴎外も、晩年は引っ込みがつかなく

なったのでしょう。

脚気で亡くなったのは軍のせいでした」

では、亡くなった陸軍兵士の遺族が浮かばれ

ないと、私でも分かりますもん。

 

長くなりましたが最後にひとつ。

これは文豪・鴎外からの純粋な想像ですが、

鴎外に、貧しい日本の国情への理解と、出征

する若者達の心情を思いやる気持ちが、無か

ったはずはないと思うんです。

 

文芸者でもある鴎外は、むしろ常人以上に、

「戦場に赴く兵士たちに、彼らの憧れの白飯

を、腹いっぱい食べさせてやりたい」という

気持ちが強かったのではなかろうかと。

 

軍人:森 林太郎と文人:森 鴎外を、厳格に

使い分けていたと伝わる鴎外のこと。

少し身贔屓が過ぎますでしょうか?

 

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写真:kyowanannohi.blog.fc2.com

 

うーん、文豪シリーズ、ますます荷が重くな

ってきました。まだネタあったかな?

          以上 ふにやんま