ふにやんま ー 世界の小所低所からー

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雪の日に遠藤周作のこと

一昨日に引き続き、博多も昨日は朝から雪でした。凍った路面の上に、雪が乗っている一番滑りやすい状態。ソロリソロリと700m先の駅まで歩いて行ったのですが、何故か全然滑らない。

そうか、このTimberlandのブーツは滑らないんだ!さすがアメリカ製!(多分違う)と思った瞬間に滑りました。神様のイタズラかよ!と思いましたねホント。

ゴールキーパーをやっていたので、いまだに不意に転んでも頭や顔面を打つようなことはありません。バイクや自転車でも散々コケてきましたが、大怪我をしたことが無いのはそのおかげかと。若いころに覚えた事は、人間死ぬまで忘れませんね。

でも滑った際に左膝の皿をしたたかに打ちました。膝にサポーターをして練習していたので、膝で衝撃を吸収する癖が体に染みついております。しばらく歩けず。転んでもただただ起きない。

 

ところで「神様」「転ぶ」と言えば、少し強引ですが

『沈黙』遠藤周作(1966)ですね。 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

初めて読んだのは中学生でした。その時は「盛り上がりのない小説だな」という印象しか持たなかったのですが、今や私の数少ない読み返し本のひとつになっています。

「どうしてお笑いになる」

「パードレ。その井上筑後守様は、そこもとの眼の前におられる」

茫然として、彼は老人を見つめた。老人は子供のように無邪気にこちらを眺めて手をもんでいる。これほど、自分の想像を裏切った相手を知らなかった。ヴァリニャーノ師が悪魔とよび次々と宣教師たちを転ばせた男を彼は今日まで青白い陰険な顔をした男のように考えてきた。しかし目の前には、ものわかり良さそうな温和な人物が腰かけていた。

この一節には何回読んでも唸らされます。人間の中に潜む残虐性、ひとたび弱者を迫害する側に回った時のデモーニッシュな衝動の恐ろしさを、こう描くかと。司祭ロドリゲスやキチジローの煩悶以上に、私には印象深い一節です。

 

転ぶ一日前になる、雪に閉じ込められた日曜日には、中学生の時に感心した遠藤周作氏の文章に三十年ぶりに再会しました。

『~遠藤周作箴言集~人生ひとつだって無駄にしちゃいけない』

遠藤周作(2015) 

人生ひとつだって無駄にしちゃいけない―遠藤周作の箴言集
 

 

わが家の憲法

私はめったに叱らない。息子に関する大半のことは妻に任せている。

(中略)

しかし、そんな私も叱るときが二年に一度ぐらいある。それは彼と私とがずっと前から男同士の約束としてきめた憲法を破ったときである。その憲法とは三つある。

一、いわゆる「いい子」になるために友だちの悪口や告げ口をしない。

二、身体の不自由な人を見つめたりしない。

三、叱られないためウソをつくことはしない。

(中略)

私はいわゆる小利巧な子供に自分の息子がなってもらいたくはなかった。自分だけ正しいと信じて他人を高みから裁くような偽善者になってもらいたくなかった。外観や貧富や社会的地位だけで他人を評価するような男にもなってもらいたくなかった。これらの三つは生涯、男として生きる原則だと思っているので、それを子供むきになおしたのが先にあげた三原則なのである。

『お茶を飲みながら』

とても感心したので我ながらよく覚えておりました。三つともほぼ正確に言えましたもん。そのぐらい強く響いた文章でした。

当時は「この三つを守れればそりゃ男らしいよな」と実践する立場で感心したのですが、今は父親として、この三つを自分が背中で見せられているかどうかを顧みる立場になりました。歳月は飛ぶように。

こうしてブログに書き残しておけるのも、何かの縁でしょう。『沈黙』以外の遠藤周作氏の本を、今年は数十年ぶりに少し読み返してみようと思っています。

そうそう。箴言集の類はどちらかと言うと嫌いなのであまり読まないのですが、この本は図書館で返却本コーナーに置いてあったのがたまたま目に付きました。おっ遠藤周作のエッセイか。懐かしいなと思って借りてきたものです。

やはり神様のイタズラでしょうか。その時は転ばなかったのですが。

以上 ふにやんま