読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ふにやんま ー 世界の小所低所からー

http://funiyanma.hatenablog.com/  

『ご臨終メディア』 -質問しないマスコミと一人で考えない日本人- 森達也

読書

 『ご臨終メディア』 -質問しないマスコミと一人で考えない日本人-

 森達也森巣博 共著(2015)

読書メモ風に。

森巣氏の『前口上』から。

「平均的日本人の脚は、絶対に二本未満である」という主張を、私は持っている。

実は、二本の脚を持つ人は、「平均的日本人」から逸脱しちゃっているのである。

そりゃそうでしょ。生まれつき脚がない人や、事故で脚を失っちゃった人もいるのだから。

ところが、日本に住む多くの人たちは「平均的日本人の脚は、絶対に二本である」と固く信じているようだ。それゆえ、二本未満の脚の人や、あまりないかもしれないが二本より多くの脚を持つ人は「異常」とされ、少数者に対する排除のメカニズムが作動するのではあるまいか。

我々の思い込みを、ポンと覆してみせる入り方が上手い。

 

続いて本文。森氏の発言から。

森 ジャーナリズムの定義について、少しだけ補足させてください。「時事的な事実の報道や論評」との文脈に、「伝達される側にとって価値があると思われる」を加える必要があると思うんです。(中略)

ところがメディア従事者は、客観、中立、公正という価値が至上のものであるとの意識からどうしても抜け出せない。(中略)

客観や中立であることの判断は、自分の立ち位置の正確な測定が必要です。つまり座標ですね。ところがこの座標軸は、無前提で存在するものではありません。誰かがこの座標軸を設定せねばならない。では、その誰かとは誰か?メディアの神でもいるのでしょうか?

要するに座標軸を設定する行為そのものが、すでに主観を基軸にしているわけです。(中略)

まずはこの当たり前の現実を、メディアに帰属する人たちはもっと自覚すべきだと僕は考えます。

なぜならば自らが中立公正だとの思い込みは、絶対的な正義に短絡する場合が多いのです。同時に、恣意的に設定された座標軸への懐疑を失うことで、時の為政者や権力、あるいは暴走する民意に、抗う力も失ってしまいます。

森 メディアは絶対に主観から逃れられない。その環境設定をもっと自覚すべきなんです。その欺瞞性や曖昧性を肌で感じながら、その中であがき続けなければいけないのに、そのあがき続けるという意識が、今すごく希薄になっています。


親しすぎる者同士の対談はスイングしない、というのが私の持論です。共有してきた時間が長いと、二人の間では既に「所与のもの」となった前提が多くなっている為、対談ではその全店は改めて確認されません。そうすると読者にとって分かりにくい対談になるんですよね。

作品を通して事前に共鳴し惹かれていた初対面の二人が、互いの認識を最初に確認しあう本書のような対談は、どちらの既存の読者にとっても有益です。

端的に自説を披露してもらう希少な機会。さらに両者のスイングがそこから始まれば最高でしょう。本書はその部類の対談ですね。

古い対談だなおい。10年前かよと思いつつも図書館で借りて読み始めた本なのですが、3分の1ぐらい読んだところでAmazonに注文しました。

本に線は引かない主義なのですが、この部分はいい。めっちゃ大事というセンテンス(スプリングと続けて打ちたくなるこの頃)が多すぎて。高校生の息子にも読ませるつもりです。

 

森巣 どうしてメディアは、障害を持っている人が、努力によって障害を克服して、健常者と同じように頑張りましたというストーリーが大好きなんですか。

森 その答えは単純です。読者や視聴者などのマーケットが、そのレベルの美談を求めているからです。要するに市場原理、大げさに言えばダーウィニズムです。他には、視聴者からの抗議の問題もありますね。それと企業イメージを気にするスポンサー。大きくはこの三つでしょうね。

森須 健常者と同じ能力になりましたということほど、障害者をバカにした物語はない。

森 多くの障害者が、そんな美談仕立てに対して拒否感を表明しています。でも彼らはあくまでもマイノリティですから。視聴者というマーケットは、お涙頂戴で感動したい健常者で構成されているわけです。 

このあたりから、二人のスイングの兆候が感じられませんか?

 

森巣 知らせないこと、それはあります。これ、英語圏では「無知の技術」と呼んでいる。

森 何かあったときに、責任を取りたくないから報道しない。だからプロパガンダほどの雄々しさはないんです。

森巣 責任を取りたくないメディアなんて、メディアではない。それこそ自己責任が必要じゃないのでしょうか。

森 テレビは、何千万人も視聴するわけで、間違えた場合は、とてつもないことになる。だから、みんなが委縮している。そもそも責任は取りきれないものであり、大被害を与えるかもしれない稼業なのだとの自覚は必要です。もし何か間違ったとき、当然訂正はしますが。その訂正すらできないメディアとはいったい何なのか。

森巣 訂正する可能性のあるようなことは、しないで済ませてしまいます。

本書の骨子となる部分はこんな感じですね。

メディアに身を置いている訳でもないサラリーマンとしては、普段なかなか関心の及ばない領域で、たっぷり考えさせらます。これは良書です。

 

《おまけ》感心した部分。

森巣 いわゆる文明社会というものは、明らかに善意を前提として成立しています。

なぜかというと、送電線を切っただけで、私たちの暮らしている都市機能は、麻痺する。約束事を無視して、横断歩道をみんなが行ったり来たりするだけで交通機能は麻痺してしまう。あまりいい例ではないですけれど、鉄道も誰かが線路に飛び込めば___それも、もし計画的に三〇分ごとに飛び込めば、機能は完全に麻痺する。つまり、都市機能は、そこに住む者たちの善意がなくなれば簡単に崩壊する。 

森巣 日本というのは先進国で唯一、ゲーム賭博の場、すなわちカシノが公認されていない国です。なぜなのか、その理由ははっきりしている。「自動車産業より大きい」年間30兆円産業のパチンコ業界があるからです。(中略)

現にほんの十五年前までは「景品買い」は取り締まられていました。ところが現在では大っぴらに換金できます。

なぜなのか?それは景品を買い上げるシステムを警察が立ち上げたからです。パチンコの「景品買い」を警察がやっている。もちろん、誰も取り締まれません。で、退職警察官は、警察共同組合から、国の基礎年金以外に毎年数百万の年金を頂戴できる仕組みになっている。 

 森 『A』や『A2』に対する批判って、実は意外に少ないのですが、やはりこのテレビ朝日への抗議と共通するところがあって、「もし被害者やその遺族がこれを見たら、どう思うかを考えろ、お前はその責任取れるのか」式の批判です。一度だけ、上映会場でその疑問をぶつけてきた人がいたので、「あなたは被害者ではないのだから、あなたはどう思ったのかを僕はまず聞きたい」と質問し返したら、答えてくれないんです。・・・何というか、そんなことは考えたこともないといった感じで、とにかく被害者が・・・の一点張りなんです。

森須 被害者がどう思っても仕方がないという部分がなければ、報道なんてできない。

森 実際、地下鉄サリン事件の被害者やその遺族などで観てくれた人も、僕の知っているかぎりでも何人かいます。やっぱりオウムは許せないという人もいれば、感動しましたと言ってくれる人もいる。さまざまです。当たり前です。

 以上 ふにやんま