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ふにやんま ー 世界の小所低所からー

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『すべての戦争は自衛意識から始まる』 森 達也

読書

 『すべての戦争は自衛意識から始まる』 森 達也(2015)

現行憲法の交付前、国会で吉田茂首相に「戦争には侵略戦争と自衛の戦争の二つがあり、その双方を否定するのはおかしい」と憲法草案について質問したのは、共産党野坂参三議員だった。これに対して吉田首相は、「自衛の意識が戦争を起こす」と答弁した。すなわち九条の精神だ。

この吉田の視点は、とてもリアルで正しい。植民地主義が終焉して以降、この世界で勃発する戦争のほとんどは、過剰な自衛意識がもたらした争いだ。

自衛の意識は簡単に肥大する。解釈次第でどうにでもなる。かつて日本が戦争の大義にしたのは、欧米列強からのアジアの解放だ。ナチスドイツによるポーランドへの侵攻は祖国防衛が目的だった。ユダヤ人の駆逐はゲルマン民族を守るため。そもそもブッシュ政権のイラク侵攻も、大量破壊兵器を持つテロリストから世界の平和を守ることが大義だった。

警察予備隊創設時の内閣総理大臣吉田茂だったという皮肉はさておき、大体この主張に沿った森氏の持論が展開される本です。

 

目次だけ見ても、ネトウヨと呼ばれる皆さんが泣いて悦びそうなタイトルが並んでいます。それこそ「釣り」かとみまごうような。

すべての戦争は自衛意識から始まる | 森達也 著 | 書籍 | ダイヤモンド社

南京大虐殺、被害者は三〇万人でも一五万人でも(端的に言えば)どっちでもいい』

『平和で頭がボケているからこそ、気軽に「血を流す覚悟」などと口にできるのだ』

自虐史観と呼びたければ呼べ。でも加害の記憶から目をそむけてはいけない』

それぞれ慎重に本文を読めば理のある話なのですが、きっとタイトルだけ見て反応する人がネット上には多いのでしょうね。不思議な行動パターン。

 

まだ新しい本なので、こういった一文も。

この流れに抵抗しようとする人の一部は、安倍首相や政権をヒトラーナチス政権になぞらえながら、「彼らは日本を戦争ができる国に変えたいのだ」と激しく批判する。気持ちはわかる。でもその言葉の使いかたは少し違う。安倍首相も現政権も、決して戦争を望んでいるわけではない。戦争の悲惨さはよくわかっている(と思いたい)。彼らは彼らなりに戦争を忌避しようとしていると考えたい。

ただし彼らの歴史認識は不十分だ。戦争のメカニズムが決定的にわかっていない。自衛の意識が戦争を引き起こすとの認識がない。抑止力が時として仇となって人々に牙を剥くことへの実感がない。だから解釈を変えることに摩擦がない。つるつる滑る。

戦争とは戦争を憎むことだけでは回避できない。戦争を起こしたいと本気で思う指導者や国家など存在しない。ところが戦争は続いてきた。なぜなら人は不安や恐怖に弱い。集団化して正義や大義に酔いやすい。歴史上ほとんどの戦争は自衛への熱狂から始まっており、平和を願う心が戦争を誘引する。指導者やメディアは国民の期待や欲求に応えようと暴走する。特に戦争の形態が変わってきた今だからこそ、抑止力や安全保障、そして自衛などの概念については、絶対に取り扱い要注意なのだ。

 

森氏はアウシュビッツを、北朝鮮を、パレスチナ難民キャンプを訪ねます。パレスチナでの避難民の若者の言葉。

「国はバカだ。でもおれたちは国じゃない。おれたちは一人ひとりだ。だからいつかは殺し合いはやめる。平和な世界は夢じゃない」

 

第二次中東戦争の舞台となったスエズ運河のコンクリート壁に大書された巨大な「PEACE」の文字を見て。タイトルにも一文が使われております。

とてもシニカルだ。でも殺戮と報復が連鎖し続ける地にいるからこそ、心から平和を願う。それが当たり前のことでもある。ところが平和な状態が長く続けば、それがわからなくなる人たちが現れる。石原慎太郎元知事や改憲派の識者や保守論壇誌などによく登場するジャーナリストたちは、護憲派を平和ボケなどと嘲笑する。それは逆だ。平和で頭がボケているからこそ、気軽に「血を流す覚悟」などと口にできるのだ。 

 

南京大虐殺紀念館」にて。

やはり最後には夥しい数の犠牲者の顔写真が展示されていた。死んだ人を数や記号にしないために。一人ひとりが生きとし生ける人たちなのだととの感覚を刻むために。

 その顔写真に対して(対象は非常に重要)

できることなら土下座して詫びたい。自分の行為ではないけれど許しを乞いたい。そういえば鳩山由紀夫元首相がこの施設に来て「お詫びしたい」と述べたことがニュースになったとき、ネットには「非国民」や「売国奴」などの書き込みが例によって溢れかえった。

上等だ。詫びることが非国民で売国奴なら、いくらでもその称号を受けてやる。 

非常に曲解されやすい、言い方を変えれば悪意をもって解釈されやすい一文であるのは承知の上なのでしょう。森氏の覚悟が強く滲み出た文章です。

 

 

このブログは固別の飲食店に触れない(過去に削除したエントリがいくつかあります)、政治的な内容には触れない、と決めているので話はあらぬ方向へ飛びます。

「引用」の問題について。

第3章「タイトルを勝手につけるな。批判するなら最後まで読め。絶対にまとめるな」は、ブログを書かれるかたには等しく読む価値があると思います。

 

森氏が『ダイヤモンド・オンライン』にアップした「橋下市長の慰安婦問題発言は、女性はもちろん、男性をも蔑むものだ」に対し、

巨大掲示板にスレッドがたち、さらに(いわゆる)「まとめサイトでまとめられ、ネットではちょっとした騒ぎになっていた。

「絶対にあったというなら証拠だせ」

「この馬鹿マジで死ねばいいのに。まさに売国奴だな(笑)」

「証拠は全くないが、絶対にあった?」(以下略。罵詈雑言が合計12個)

読みながら、「証拠はないが絶対にあった」という文脈に、なぜこれほど多くの人が執着するのだろうと不思議になった。本文では「絶対にあった」と思う理由と根拠を、この記述の後に示している。ところが多くの人が根拠を示せと書いている。そして気がついた。タイトルが違う。本来のタイトルは前述したように橋下市長の慰安婦問題発言は、女性はもちろん、男性をも蔑むものだ」だ。

でも、匿名掲示板とまとめサイトのタイトルは、『森達也「橋下氏の言う通り慰安婦を強制連行した証拠はなく、吉田の発言も虚偽だが強制連行は絶対にあった」』になっている。そして多くの人たちはこのタイトルに反応して、売国奴とかクズとかアホサヨとか書いている。

やはりダイヤモンド・オンラインに掲載された『加熱する領土問題 譲渡することも一つの選択肢だ』(連載五八回)も、かなり炎上した。検索してみたら、やはりタイトルが『【領土問題】無用な諍いや争いを回避するためならば、少しばかり領土や領海が小さくなってもかまわない。命が大事___森達也』と変わっていた。これはひどい。確かにこのタイトルだけを読めば、僕だって「なんて卑劣な思考をする男だ」と思うだろう。 

タイトルの改変、これは絶対に黙認できない。

文章そのものへの影響も大きい、全文を読まずに批評されることが普通になるなら、レトリックの転換もできなくなるし、伏線も意味をなさなくなる。サタイアアイロニーが窒息する。誤解や曲解されないためには、結論を先に明示しなければならなくなる(要するにオープニングでクライマックスを見せてしまう民放テレビのドキュメンタリー番組状態だ)。これは言論に対しての大きな脅威だ。

「タイトルを勝手につけるな。批判するなら最後まで読め。絶対にまとめるなの、強いトーンの訳がお分かり頂けたかと思います。

特に評論の場合、タイトルの改変だけでなく、部分的な引用とその切り貼り、悪意のある要約などの手段によって読者をミスリードに誘うことが可能です。

大筋としては間違っていないが作為的に転換したワード、森氏の原稿に従えば「強制連行は絶対にあった」の「絶対に」を挿入することで、読者の受ける印象は原題と相当違ったものになっています。

完全に論点をズラして、文章の主題を読者に誤認させるタイトルです。これでは森氏にすれば、たまったもんじゃないでしょう。

そもそも森氏の原稿にはどこにも「絶対に」というワードは使われていません。該当するのは、

行きたくないと拒絶することなどほぼ不可能だっただろう。ぼくはそう推測する。いや推測のレベルではなく、ほぼ間違いないと断言することができる。

の部分だと思われますが、この部分を「絶対にあった」と要約するのは、前後の文脈と全文、いずれに照らしても明らかに行き過ぎです。曲者なのは、この一文だけを切り出して読むと「絶対に、とイコールじゃないの?」と思ってしまうことですね。

 

「絶対にまとめるな」は「まとめサイト」のことを指していると思われ、文章の「要約」とは趣が異なりますが、私のように本の紹介を主体にしたブログを書いているものには、耳の痛い話でした。

作者の意図を正確に理解し、できるだけ原文のトーンを壊さずに本を紹介することの難しさ。それが出来た上で自分の意見を展開するべきで、自分の主張の裏付けに恣意的に人様の著作を使ってはイカンですよね。

自分のブログは「書評」などではなく「本の紹介」だと思っておりますし、取り上げる本もエンタメ系が中心ですが、その点は心しておかねば作者にも、本ブログを読んでくださる方々にも失礼だなと。

おじさんになっても学ぶことは多い。ただでさえ引用が多過ぎだと悩んでいるのになーとボヤキ。

 

【読書メモ】

オーケー。その理屈はこれまでに何度も聞いた。ならば最後に質問する。素朴すぎるくらいに素朴な質問だ。でもずっと考えているのだけれど、僕にはどうしてもわからないのだ。

天皇の赤子として崇高な使命の為に戦ったというのなら、なぜ一年や二年の禁欲すらできなかったのだろう。

 以上 ふにやんま