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ふにやんま ー 世界の小所低所からー

http://funiyanma.hatenablog.com/  

『1984年のUWF』 柳澤健 が熱い!② カール・ゴッチ

『Number』1/21号(893号)から。

『1984年のUWF柳澤健の連載も2回目に入ります。 

前回の拙稿で、連載のタイトルから一部誤解を招いたようですが、1984年のUWFと言えば当然、第一次UWFです。ですがこの連載、時系列がランダムで時代がいったりきたりしますのでご注意ください。

さて、今回は悪性リンパ腫で闘病生活を送るカッキーこと垣原賢人選手を応援すべく、昨年(2015年)8月に後楽園ホールで実施されたチャリティイベントでの前田日明アニイの台詞から始まります。

「自分たちの師匠にあたる人、カール・ゴッチといって皆さんご存じでしょうけど、ただの人じゃないんですね。ゴッチさんはよく当時、『プロレスラーなんでしょう?』と言われたときに、『アイム、リアルワン』って言ってたんですね。自分たちはその"リアルワン"の弟子なんです。だから垣原にもう一度言います。癌ぐらいでオタオタするんじゃない垣原!お前はリアルワンのプロレスラーだろ?」

前田の温かい言葉に、垣原はどれほど勇気づけられたことだろう。

くーっ。相変わらずイカしてますね、日明兄さん。もうオジさんだけど。

かつてのUWFファンが最も熱く燃え上がったのは、前田日明がリングに上がり、こう語った時だった。

それはそうでしょう。Uの遺伝子を受け継ぐ者の中で、前田日明のカリスマはやはり一味違います。会場の轟音のような声援が聞こえるような気がしてきました。

 

連載第2回のテーマはカール・ゴッチUWFを語るならば、避けては通れない生ける伝説、Uのオリジンとして挙げるべき一人ですね。

1967年、日本プロレスの若手レスラーのコーチを引き受けたゴッチ。

すでに若手の域を脱して一流レスラーとなっていたアントニオ猪木は勇躍レッスンに参加した。

アメリカで大成功を収めたジャイアント馬場への嫉妬に苦しめられ続けた猪木は、すべてを振り払おうと、ゴッチが課すハードトレーニングに必死に耐え続けた。

練習が終わると、ゴッチは猪木に繰り返し語った。

力道山は偉大なるビジネスマンだが、レスラーではない。馬場はアメリカでも大人気を博した素晴らしいアトラクションだが、やはりレスラーではない。(中略)

偉大なる格闘技、キング・オブ・スポーツであるプロフェッショナル・レスリングを、新聞のスポーツ欄に復活させなければならない。プロレスを本来の姿に戻すことができるのは、サムライの子孫である君たち日本人しかいないんだ」

当時24歳。来日した外国人レスラーの誰もがその身体能力を絶賛した次代のエースは、ゴッチの言葉に熱心に耳を傾けた。

ここでゴッチが猪木に語ったとされる内容は、柳澤氏のビッグ3観を多分に反映したものだと思います。「ビジネスマン」力道山に「ショーマン」ジャイアント馬場

 勿論1976年のアントニオ猪木の著者でもある柳澤氏ですから、簡単に「ストロング・スタイル志向」アントニオ猪木、などとは言い出しませんが、この当時の猪木がゴッチのメンタリティを受け継ぎ、将来の自分と後の新日本プロレスのスタイルのヒントを得たことは間違いないでしょう。

 

日本プロレスを追放された猪木は、選手としての参加だけでなく、外国人選手招聘のためのブッカーも、師匠であるカール・ゴッチに引き受けて貰ったのは周知の事実ですね。

だが、ブッカーとしてのゴッチは無能だ、と猪木は感じていた。結局のところ、自分たちのやっていることは興行だ。観客を集められなければ新日本プロレスは倒産してしまう。観客を呼べる外国人レスラーを集めるのがブッカーの仕事ではないか。

ゴッチの理想よりも会社経営という現実を優先させた猪木は、ゴッチの権限を大幅に削り、ロサンジェルスのマイク・ラベールを新たにメインブッカーに据えた。

レスリングは出来ても、地味で花のないレスラーばかり送ってこられても困る。大向こうを唸らせるような、スケールの大きな外国人選手が欲しい。

新社長でありエースであった猪木にすれば、当然の願いでしょう。タイガー・ジェット・シンビル・ロビンソンとの名勝負で猪木がグングンと株を上げていく中、二人の関係が微妙に狂い始めます。

アントニオ猪木新日本プロレスの人気が爆発的に伸びていく中、カール・ゴッチは、レスラーとしてもメインブッカーとしてもお払い箱にされた。

ゴッチに残された役割は、前座レスラー数名のブッキングと、日本の若手レスラーに、わずかな期間プロレスの基礎を教える臨時トレーナーだけになった。

すでにアメリカのマット界にゴッチの居場所はなくなっていた。さらに新日本プロレスから支払われたギャランティがなければ、フロリダ州タンパ郊外の小さな町オデッサに一軒家を購入することは不可能だった。ゴッチの生活は、新日本プロレスから得られる収入で成り立っていたのだ。

アントニオ猪木は、藤波辰巳長州力藤原喜明木戸修佐山聡前田日明高田延彦などの若いレスラーを次々にフロリダで暮らすゴッチの下に送り込んだ。 

実は猪木からすれば、新日本プロレス旗揚げ戦でメインイベントの対戦相手まで務めてくれた師匠に対し、送金だけして飼い殺しにするようなことはゴッチの面子を潰すことになり考えられない。

そこで苦肉の策として、いわば新日本プロレス技術顧問といった感じで、アメリカで若手のコーチを 引き受けてもらうことにした、という事ではなかったかと推測します。選手の生活費プラス指導料として送金すれば、ゴッチの体裁も損なわれずに済みます。若手レスラーにとってプラスでこそあれ、よもやマイナスになることはあるまいと。

 

ここに猪木の小さな誤算があったと思うんですよ。

既に24歳の一介のプロレスラーとして一旦出来上がり、1年強と期間は長いもののコーチを受けるだけだった猪木とは異なり、先にあげたような若手レスラーは平均して半年間、カール・ゴッチと寝食を共にした訳です(正確には若手レスラーは近くのアパートに寝泊まりしていたようですが、ゴッチのことですから「寝食を共に」という表現であながち間違いではないと思います)。

中には藤原喜明のように30歳を越えてから、自分から志願してゴッチ道場の門を叩いたようなレスラーもおり、新日若手レスラー間でのゴッチへの高い評価が伺えます。

「師匠(猪木)の師匠」

「プロレス技術の最高の職人」

「ゴッチの下で学べば強くなれる」

そんな気持ちで臨む半年で、往時の猪木がゴッチから受けた影響を遥かにしのぐ、文字通りの薫陶を、若手レスラーがゴッチから受けないはずがありません。

 

連載ではまだまだ先のようですが、後年、前田日明アニイが叫ぶことになる名言、

「猪木だったら何をやっても許されるのか!」

のバックボーンには、プロフェッショナルレスリングの担い手としてゴッチ>猪木と置く価値観があったと思いますし、それがタンパの空の下、ゴッチに学んだ若手レスラー全員に埋め込まれたUの萌芽だったのかも知れません。

 

なんとか前田日明アニイにクルッと戻れたところで、次回に続きます。

 

以上 ふにやんま