ふにやんま ー 世界の小所低所からー

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『死刑のある国ニッポン』 森達也・藤井誠二 

『死刑のある国ニッポン』 森達也藤井誠二(2009) 

死刑のある国ニッポン

死刑のある国ニッポン

 

一度読んだ本は中身を忘れるまで読み直す習慣が無いのですが、本書は続けて二回目を読んだ(読み直した)数少ない一冊になりました。

熟読派のかたからは笑われそうですが。

 

『死刑』というテーマの重さがひとつ。

もうひとつはお二人の言葉の重み。

森氏は死刑廃止派、藤井氏は死刑存置(存続)派という立ち位置ですが、そこに至るまでの長い煩悶に裏付けられた、言葉の一つ一つがとにかく重い。

過去の著作を通じて、死刑判決が出るような刑事事件の被害者・加害者双方の多くの声に向き合ってこられたお二人の対談だけに、読者にも考察を迫ります。

あなたはどう考えるのか?と。

 

森氏はオウムの死刑囚、岡崎一明氏から「会いたい」というメッセージを受け、死刑制度に興味を持ち始めたと言います。

透明なアクリル板越しににこにこと笑っている彼を見ながら、あるいは家に送られてきた墨絵を眺めながら、「この人を殺すことの意味は何だろう」と考えました。一言にすると、とても居心地が悪かった。(中略)居心地が悪いひとつの理由は、死刑という制度について、自分がほとんど何も知らないからです。ならば知りたいと、そのときにやっと思いました。

自分の「知りたい」という欲求に従って動く、ルポルタージュを専門とする森氏らしい感想ですね。

 

調べれば調べるほど、死刑というシステムがこの社会から、「不可視の領域」に置かれていることを実感しました。一般のレベルで言えば、日本の死刑執行の方法が絞首なのか電気椅子なのかすら、よくわかっていない人が少なくない。

大学の授業で学生たちに「確定死刑囚はどこにいるか知っているか」と試しに訊いたら、半数近くの学生が刑務所と答えました。

死刑囚に与えられる罪は死刑になることです。つまり殺されること。最高に重い刑罰なのだから、他の刑罰をこれに加えることはできない。懲役一五年プラス死刑などありえない。だから彼らを刑務所に入れることはできない。つまり理論的には、刑が確定した段階で、彼らは家に帰れるんです。そして執行の通知が来たら、刑場に赴いて執行されればいい。でも執行の日に彼らが律儀に出頭するという保証はない。

そこで苦肉の策として、まだ刑が確定していない被告人たちが収監される拘置所に、確定死刑囚はあくまで例外的存在として拘置される。確定囚なのに未決囚。懲役ではないから刑務作業などはしなくていいけれど、自由を奪われるという意味では、禁固や懲役と同じです。

さすがに日本の死刑が絞首、いわゆる「首吊り」で執行されることは多くのかたがご存知でしょう。

本書刊行の翌年、2010年に法務省が東京拘置所の刑場をマスコミに公開し、内部の写真が初めて国民の目に触れたのは記憶に新しいと思います。

しかし確定死刑囚の居場所が「刑務所」でないことや、刑務作業をしなくていいといったことまでご存知のかたは少ないのでは?

私もためらわずに「刑務所」と答えていたであろう一人です。

そんなこと、死刑制度の本質と関係の無い枝葉の話では?

という感想を持たれるかたも多いでしょうが、森氏は「知らない事の自覚」「目を背けている事の自覚」が必要だと言い続けます。

確かに誰だって凄惨な場面からは目を背けたい。できるなら見たくない。でも目を背けたくなるような制度ならば、なおのことその正当性や意味については考えないと。

 

森氏の論旨の柱は以下の部分。

情緒と論理を分けて考える

裁判官が判決文を読み上げるとき、遺族の処罰感情に必ずのように言及する現在の刑事裁判制の状況は、すでに観念的な論理より情緒が優先されているとは思いませんか。法廷は、情緒や観念をできるだけ排除しながら、論理で考える場のはずです。論理を優先すべきです。なぜなら裁判官も検察官も弁護人も、そして何よりも加害者と被害者も、みな人なのだだから、情緒を完全に排除することなど不可能です。だから目指すべき方向は論理です。情緒からは逃れられない。でもというかだからこそ、論理を目指すベクトルは必要です。

殺人事件の加害者に対し、命をもって償わせたいたいと被害者遺族が望むことは当たり前の情緒である。

でも事件当事者である被害者遺族の嘆きや悲しみ、被害者を守れなかった自分を責める気持ちから生じる加害者への応報感情に、第三者が便乗して、表層的な社会正義を執行したつもりになってはいけない。

人は人を簡単には殺せない

基本的に、本能の部分では人は人を殺したいと願う生き物ではない(サイコパスのような例外はいます。その為の基本的にです)

誰もが持つ利他心、「人は人を救いたい」という単純な感情を前提に、死刑制度を考えるべきなのだと。

森 つまり「人は優しい」ということです。

藤井 森節だなあ(笑) 

森 以前、漫画家の小林よしのりさんに、「あなたは性善説だ」と言われました。まずはこの二元化が違うと思う。善もあれば悪もある。その混在が人間です。確かにその善悪の総体を考えたとき、人は悪よりも善の領域をはるかに多く持つと僕は考えています。その意味では性善説かもしれない。でも善だから人は悪事を為さないとは考えていません。むしろこの善なる領域のほうが、人に危害を加える場合が多い。

人は悪意で人を大量には殺せません。人はそれほど強くない。でも善意や正義や危機管理意識が燃料になったとき、人は人を際限なく殺戮する場合がある。戦争や虐殺はまさしくこの事例です。なぜなら悪意には後ろめたさや逡巡などの摩擦が働くから。でも善意には摩擦が働かない。

藤井氏の示唆に富んだ多くの発言のお陰で、二人の議論がスゥイングしながら深まっていく本書ですが、森氏の発言は残念ながらこの「森節だなあ(笑)」しか引用出来ません。

ですが、これは森氏の愛読者には大きなキーワードですね。

森氏の目には死刑制度がどのように見えているのかを、このコメントが一番よく伝えてくれています。

居心地が悪い、揺れ動く、グズグズになる etc.  色々な表現をされていますが、森氏にとって死刑制度の現状には違和感があると。

とにかく死刑については、あまりに不可視な領域が多すぎる。法務省が隠しているとか情報を秘匿するとかのそれ以前に、国民の側が目を背けてきた。見ないようにしてきた。だからほとんどの人にとってこの制度は、曖昧な概念でしかない。これで廃止か存置かなどと議論しても空しい。まずはそう思います。

今、この瞬間も執行を待つ250人の死刑囚がいる。その中には冤罪で死刑囚とされた者もいるかもしれない(森氏は不可能な事とは言え、仮に冤罪が100%無くなったとしても、自分は死刑廃止派だと重ねて主張しておられますが)。

にも関わらず、死刑制度の本質的な議論は全く深まらない。

人の命が懸かった問題だというのに。

 

 

多数派の言う正義への便乗、思考が停止した付和雷同こそ、森氏の最も忌み嫌うところ。

遺族の心情を共有することなど絶対にできない。できない自分を自覚すること。「愛するものを殺された人の気持ちになってみろ」と言う人に対しては、「あなたはなっているのですか」と僕は聞き返したい。テレビを見てご飯を食べて友だちと雑談して、余った時間に想像して、「なれる」ような気持じゃない。そんな生易しい悲しみや苦しみじゃないことくらいはわかる。逆に言えば、そのくらいしかわからない。その自覚というか後ろめたさをもっと持つべきです。

「犯罪被害者や遺族の気持ちを知れ」などと簡単に口にする人は、自分に問い返したほうがいいと思う。自分が心から愛する人がこの世界からいなくなること。そんな状況とそのときの自分の心理を、本当にリアルに想像できるという人がもしいるのなら、僕はその人を軽蔑します。人を舐めるなと言いたい。

「人を舐めるなと言いたい」

これには参りましたね。頭をガツンとやられた気分になりました。

遺族がかわいそうだと思わないの?

人を殺した奴なんか、死んで償わせるのが当たり前だ

こういった浅薄な感情論を根拠にした死刑制度で、人の命が奪われていくことに何の違和感も持たないのはおかしくないか?

そう森氏に問い詰められているような気になります。

 

森氏によるあとがきから。

そして僕は、死刑は廃止されるべきという結論に辿り着いた。優柔不断で結論を出すことは苦手だけど、でもこれについては、もう惑わない。悩まない。たとえこの国で今よりさらに少数派になったとしても、死刑廃止を主張し続ける。

こうしている間にも、誰かが処刑される。命を削られている。罪人ではあるけれど、やはり尊い命だ。だから惑い、悩みながらも、結論は先延ばしにしないでほしい。

もしもあなたの結論が存置なら、僕は同じ言葉を繰り返す。何度も何度も繰り返す。きっといつかは通じると信じながら。

オウム事件光市母子殺害事件を契機にした「被害者遺族」のマスコミの扱い方の変化からメディア論へ。

死刑・宗教・赦しの関係、「罪と罰」の問題から、集団の均質性を尊ぶ日本人論へ。

さらには裁判員制度の導入が孕んだ課題等、死刑制度への議論を通じて、本書は現代日本の抱えた構造的な捻れにまで迫っています。

抜粋ですとどうしても誤解を招きやすいテーマですので、興味を持たれたかたはご一読を。広くお薦めできる本です。

 以上 ふにやんま