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ふにやんま ー 世界の小所低所からー

http://funiyanma.hatenablog.com/  

『1984年のUWF』 柳澤健 が熱い!⑨ 藤原組

『Number』4/28号(900号)から。

『1984年のUWF柳澤健 連載第9回のタイトルは「藤原組」  

藤原組長と”ゆづ君”のGAPがそこはかとない味わいを醸し出します。

日本人はここまで変わってしまいました・・・。余談。

 

この回、面白いのですがとても書きにくい。

この時期のUWFの内部情報は、よほどリング外マニアのプロレスファンでない限りご存知ないと思います。あまり報道もされてませんし。

従って、本連載で初めて大きく世に出るある情報が肝なのですが、それを書くのっていわゆるネタバレですよね。

フィクションならば、文体を味わうとか会話を楽しむとか他に楽しみ方もありますが、ノンフィクションでネタバレやったらさすがにマズいかと。

なので今回は残念ながら、一番書きたいネタに触れません!

薄めのエントリになりますが、是非「Number」か単行本(出たら)をお買い求め下さい。

 

1984年6月27日、藤原喜明高田延彦UWF移籍会見が開かれます。

可愛い前田をUWFのエース、いや、日本プロレス界の10年後のエースにするためにUWFにやってきた。

一方、高田は「前田さんは兄のようなもの。UWFにいることはずっと気にかかっていた。藤原さんがUWF行きを決めたことで、自分も移籍を決意した」

会見にウイスキーをぶらさげて登場、ラッパ飲みしながら受け答えをした組長は酩酊しながら藤原節全開です。

高田、本当にありがとう。お前には一生、俺は感謝してるぜ。俺がUWFに行くといったら「僕も行きます!」とすぐに言ってくれた。俺はうれしかったぜ。UWFがつぶれたら、俺の財産は全部お前にやるからな。お前には絶対苦労はさせん。俺たちは”藤原組”だ。

めでたい移籍会見で、つぶれたらとか言ってしまうのが素敵。

ちなみにこの日、副鼻腔炎の手術直後で入院先から駆け付けた前田と、組長はウイスキーで兄弟の盃を交わし、前田を再び病院送りにしてしまいます。ははは。組長らしい。

病院に戻ったときには扁桃腺炎を併発して40度の熱を出したという。

 

ところで高田延彦

新日本プロレスを辞める直前、藤原は道場で教えていた若手を集めて「俺は新日本プロレスを辞めてUWFに行く。一緒に来るヤツはいるか?」と聞いた。

若手は自分を慕っている。自分がUWFに行くと言えば、彼らは必ずついてくる。

だが、小杉俊二、山田恵一(後の獣神サンダー・ライガー)、武藤敬司ら藤原教室の門下生は、藤原には従わなかった。

藤原についてきたのは、高田延彦ただひとりだったのだ。

後付けですが、いかにも付いてこなさそうな面子ですもんね。小杉は引退が早かったのでよく知らないのですが、山田、武藤は実力は別にして、生粋のエンタメ路線タイプでしょう。

この年の7月20日に、高田はダイナマイト・キッドとWWFジュニアヘビー級のタイトルマッチの予定が既に組まれていて、佐山なきあとの新日本プロレスのスター候補生だった訳です。青春のエスペランサと古館伊知郎に命名され、まさに売り出し中の身。

しかし、若きホープは、華やかな舞台を用意してくれた新日本プロレスを捨てて、マイナー団体UWFに走ったのだ。

誰もができることではない。 

高田が新日本プロレスの合宿所を出た当日、『週刊プロレス』の山本隆司記者は、渋谷で高田にインタビューしている。

「高田は1人荷物をまとめて合宿所を出て前田のマンションに転がり込んだ。『藤原さんがいなくなったら、”これ(シュート)”を教えてくれる人がいなくなる。そうなれば、俺はプロレスラーとしてやっていけない。俺は新日本プロレスよりも藤原さんの”これ”を取ります』と僕に言った。

高田は目に見えないものを信じた。藤原の向こうに何かを見た。その感性が凄い。バッグ1個を持って新日本プロレスを去った高田延彦は、最高に美しかった。

将来は絶対にトップに立つな、と思ったら、本当にそうなった」(山本隆司

高田延彦は17歳で新日本プロレスに入門。入門時63㎏しかなかった高田は肉が付きにくい体質で、遠征中でも皆に隠れてチーズを齧ったりと相当ウエートアップに苦労したと聞いています。

酒で門限を破って、鬼寮長と恐れられた前田に半殺しにされた、というエピソードは有名ですね。

前田が生意気な新弟子を見放すことはなく、むしろ弟のように可愛がった。

前田が面倒見のいい人物であること、高田が人なつっこく、人から愛される性格の持ち主であること、ともに両親が離婚し、父親に育てられた共通点を持っていることなどがその理由だろう。

 

そして高田の入門から7カ月が過ぎた頃、藤原がフロリダのゴッチ道場から新日本プロレス道場に戻ってきて、藤原、前田、高田のスパーリング三昧の日々が始まります。

11年間も新日本プロレスに世話になった。新日本は、俺の青春のすべてだった。

そう移籍会見で語った組長の言葉に、嘘はないと思います。

3人がそれぞれ大事なものを捨てて、UWFに集ったこと。

Uの遺伝子の、運命の糸を感じずにはいられません。

 

そして組長・高田の会見の翌日、6月28日にUWFは再び記者会見を開きます。

何故連日なのか?藤原組長と同格の、エースへの配慮ですね。

出席したのはザ・タイガーの佐山聡、そして山崎一夫である。

前日とは異なり、入団記者会見ではなかった。

タイガーマスク佐山聡がザ・タイガーとして1年ぶりにプロレスのリングに上がる。(中略)

そのことを発表するための記者会見だったのである。

佐山はインストラクターの山崎一夫とともに、タイガージム所属選手としてUWFに参戦することになった。

このあたりを正確に把握しているかたは、相当のプロレス業界マニアでしょう。

私なんか全然知りませんでした。

佐山は当初フリーランスの身分でUWFに参戦していた=所属選手ではなかった。

山崎一夫は同年2月にスタートしたタイガージムのインストラクターだった。

この2点、後で間違いなく重要性を持ってくるはずです。

 

冒頭の、なので今回は残念ながら、一番書きたいネタに触れません!に戻るのですが、

なぜ佐山はUWFに参戦したのか?

軋轢のあった新間寿がいなくなった事は要因の一つですが、ここで佐山が割り切りさえすれば、全日に上がるなりWWFに定期参戦するなり、もっと条件のいい選択肢はあったはずなんですね。テレビ朝日との契約も切れてますし。

 

そりゃあ、ゴッチの直弟子同士として当然だろう!

ということで、今まで疑問に思ったことなど無かったのですが、

実は佐山とUWF浦田社長の間には、ある目論見があったのでした。

 

もうダメ。これ以上書けません。

核心に触れずに終わる自信が無い。

ちなみに佐山と藤原組長は、ゴッチ教室に通うため、1980年に3カ月間、フロリダで同じアパートに暮らしていた本当の兄弟弟子なんですね。知らなかった。

 

以上 ふにやんま