読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ふにやんま ー 世界の小所低所からー

http://funiyanma.hatenablog.com/  

「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について

読書

『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』高橋源一郎(2012)

「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について

「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について

 

「あの日」=3.11 からの筆者のツイッターを中心にまとめた本です。

実は私、ツイッターというものをただの一度も見たことすらありません(原始人かっ!)

なのでツイッターが媒体として、どんな特徴を持つのか分かりません。とほほ。

引用いきます。

その中心には、ツイッターでの「つぶやき」がいつもあったように思う。もしかしたら、他の形でもよかったのかもしれない。でも、その時、ぼくが考え、「ことば」を送り出す場所として、それ以上のものは考えられなかった。

そこは、直接的な感情がやり取りされる場所だった。おびただしいことばが、生まれては消え、また絶えず生まれた。(中略)

そこには、間違いも、ためらいも、同情も、呻きも、嘲笑も、自制も、攻撃も、哀しみもあつた。いいものも、悪いものも、それよりずっと多くの、おそらくは両方の成分を持ったものが、たくさんあった。

  誤解すること、誤解されること、傷つけること、傷つけられること、それもまた、その場所の特徴だった。けれども、とぼくは思った。どんな場所でも、人は、ことばを発することによってしか、理解し合うことはできない。仮に、それが、とても小さな可能性であったとしても、それ以外の方法はないのである。

うーむ。いつもながら上手い文章だなあ。

ツイッターについてはよく分からないけれど、さすがに高橋源一郎氏。

みんなが激しく感情をゆさぶられ、不確かな情報への判断に右往左往していた時、語り合うこと以外に何ができただろうかと。その通りですね。

リアルタイムな膨大な量の語り合いを通じて、高橋氏自身も大きな影響を受けたと言っています。

だから、ここには、「あの日」から、ぼくがツイッター上に「放流」した「ことば」も、それ以外の場所で書いた、作家としての「ことば」も入っている。そして、どちらの「ことば」も、よく似ているように、ぼくには思えた。

  それらの「ことば」は、以前よりもずっと、あなたたち読者に届けばいいのにと強く思って、話されたり、書かれたりしている。そのことを、ぼくは、とても大切なことだと思うのである。

最近の高橋源一郎氏の書くものは、確かに変わったなと思います。

小説のほうのトンガリ具合は相変わらずのようですが、コラムやエッセイを読むと、これだけは若者に向けて言っておきたい! という意志を感じます。

わかりやすい言葉で、誰のもとにも伝わるようにと。

本書の白眉は『日記ー2011年3月11日から考えたこと』のうち「3月」、28頁から35頁までの「祝辞」でしょう。

この部分だけでも、本書は手に取って読む価値があります。

当時高橋氏が国際学部でゼミを受け持っていた明治学院大学は「非常時」を理由に卒業式を中止しました。

そこで卒業生に向けて読むべく準備していた「祝辞」を、高橋氏はツイッターで披露します。

タイトルは「『正しさ』について」

30回近くに及び長いツイートなので全文は紹介出来ませんが、雰囲気だけでも感じて頂ければ。

確かに、あなたたちは、直接、津波に巻き込まれたわけでもなく、原子力発電所から出る炎や煙から逃げてきたわけでもありません。

けれど、ほんとうのところ。あなたたちはすっかり巻き込まれているのです。なぜ、あなたたちは「卒業式」ができないのでしょう。それは、「非常時」には「卒業式」をしないことが「正しい」といわれているからです。でも、あなたたちは納得していませんね。

あなたたちの中には、少なからず疑問が渦巻いています。その疑問に答えることが、あなたたちの教師として、わたしにできる最後の役割です。

いま「正しさ」への同調圧力が、かつてないほど大きくなっています。

「正しさ」の中身は変わります。けれど、「正しさ」のあり方に、変わりはありません。気をつけてください。「不正」への抵抗は、じつは簡単です。けれど、「正しさ」に抵抗することは、ひどく難しいのです。

「正しい」という理由で、なにかをするべきではありません。「正しさ」への同調圧力によって、「正しい」ことをするべきではありません。

あなたたちが、心の底からやろうと思うことが、結果として「正しさ」と合致する。それでいいのです。もし、あなたが、どうしても、積極的に、「正しい」ことを、する気になれないとしたら、それでもかまわないのです。

「正しさ」とは「公」のことです。「公」は間違いを知りません。けれど、わたしたちはいつも間違います。しかし、間違いの他に、わたしたちを成長させてくれるものはないのです。いま、あなたたちが、迷っているのは「公」と「私」に関する、永遠の問いなのです。

私を捨てて公の正義や大義に尽くせという全体主義の立場から、たとえ腰抜けの価値相対主義だと謗られても、やはり大人が言わなくちゃいけない事があるとおもいます。

正反対の考えを持つ「敵」の意見の中に、耳をかたむけるべきものが少しでもあるなら、耳をかたむけたい。仮に、相手が、こちらの意見に一切耳をかたむけないとしても、誰がが銃口を下ろさない限り、「戦争」は終わらないのだ。だとするならば、最初に銃口を下ろす側に、ぼくはいたいと思う。

少々引用が飛躍しましたが、興味を持たれたかたは是非、ご一読のうえ文脈を埋めて下さい。

 「正しさ」って何ですか?

若者の問いに大人が口を閉ざしてはいけない。そんなことを考えた一冊でした。

 

以上  ふにやんま