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ふにやんま ー 世界の小所低所からー

http://funiyanma.hatenablog.com/  

『佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?』竹内久美子×佐藤優

読書

佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?』竹内久美子×佐藤優(2016) 

 "神ってる" エントリが続きます。 テーマだけですが。中身で神れよおい。それは無理。

佐藤優ほどの知性が、なんで「神様が実在する」なんて本気で信じられるのか、そこが信じられなかったんですよ。

のっけから遠慮なく突っ込む動物学者、竹内女史。何しろこちとら、リチャード・ドーキンス著『神は妄想である』を読み終えたばっかりですから、

こりゃ面白くなりそうじゃわい

と期待に胸が踊るじゃないですか。ところがどっこい、我らが優さん。神の存在を巡ってのガチンコ対決に、持っていく素振りすら見せません。 

ドーキンスの扱っている問題は、二百年前にキリスト教神学がすでに問題にしていますよ。そして百年前にほぼ解決がついている。

われら神学をやってきた人間からすると、ドーキンスの議論というのは、二十世紀の神学者カール・バルト以前の議論であって、すでに僕らから見ると解決済みとしか思えない。

シューン。序盤で聞きたい話が終わってるし。

それは一旦置いときまして、タイトルに沿った(あるいは勝手に期待した)熱い議論にならなかった理由は思うに二つ。

①竹内氏には、ちょっと荷が重かったのでは?

②宗教と科学の問題については、ことごとく優さんの中で既に解決済み。

まずから。

竹内氏の踏み込みが「科学」「宗教」いずれにおいても、もう一歩。優さんが食いついてくるような、新しい切り口というか、問題提起がない。残念ながら人選段階でミスマッチの感が否めず。ドーキンス=生物学、進化論といった連想に縛られ過ぎたのでは? 竹内氏が動物行動学で優秀なかたなのは分かるのですが・・・。

私の先生である日高敏隆先生は、

これが繰り返されて、ちょっとイラッとします。

自分の主張の傍証として、お師匠さんの成果や見解を持ち出す分には全然かまわないのですが、例証の選択と竹内氏による解釈があまり適確でないので、対談がスイングしないんですね。優さんが拾いきれずに話がブチッと途切れてしまう。あげくに、

ああ、こんなときに日高先生がいらしたらなあ。もっときっちり反論してくださるのに。

いや、それがあなたに求められた仕事だし!

もういいや。続いて

優さんは大人ですので、竹内氏への敬意を終始失わず、粛々と持論を展開していきます。本書、優さんの独白として読んだほうが失望感(一人で期待して一人で失望しているのですが)なしに楽しめます。

つまり人間が自分の力を超えるものに対して想定する神は、人間の願望や畏れの気持ちが投影された、いわば偶像ですよね。そういう神は、キリスト教神学でいう「神」ではないんですよ。にもかかわらず、いつの時代もそんな神が登場してくるために、そうした神という名の偶像をいかに排除するかが神学的な課題なんです。

世の中の人が考える神と、神学的な訓練を受けた人が考える神は全然違う。だから、竹内さんやドーキンスのように「そういう神は妄想でしょ」と言われれば「はい、その通りです」と言うしかないわけです。

へー、そうなんだ。知らなかった。なるほどねぇ。←雑なコメントのように見えますが、正直な感想ですのでお許しください。

本来はプロテスタントカトリックも科学を推奨しないですよ。神学的な立場からすると、科学的なものはすべて魔術に見える。(中略)

神学の立場では、森羅万象に神様の手が働いていると考えるのです。にもかかわらず、ある秘術を会得した場合には、誰がやっても同じ結果が出るでしょう。つまり、秘術も科学的方法も、神学からすれば同じ「魔術」ということになる。

面白い言い回し。語り口にサービス精神を感じます。

キリスト教はいい加減な宗教ですし、聖書には矛盾がある。だからこそ二千年以上、時代の変化に耐えて、長持ちしてきたんです。

『聖書』には、到底できないことを基準として掲げることによって、全員がそれを守れない罪びとであることを認識させるわけです。自分たちの社会は罪びとたちの共同体だと認識させることに主眼があるわけですから。

ドーキンスが言うように、宗教の中に危険性、狂気というものがあるというのは実にそのとおりで、全然間違っていない。ただそれを除去しても、同じ狂気が「半宗教」とか「非宗教」というかたちで必ず出てくる。

大学の教壇に立つ現役の神学者でありながら、この客観的なスタンス。「神学者ありながら」ではなく「神学者あればこそ」かな。

余談ですが、優さんが自分の講義への参加者を神学部の院生だけに限定しているというのも分かります。有名人なので受講希望者が多いのは当然ですが、神学と縁もゆかりもない私ですら、一度話を聞いてみたいっと思いますもん。

竹内 その神との関係って、佐藤さんの場合はお母さんからも自動的に受け継いじゃってるわけですよね?

佐藤 自分ではそう思ってるんだけども、実は生まれる前から決まってたんでしょうね。なんでこんなキリスト教みたいな因業(いんごう)なものと付き合ってしまったのか。自分でも納得できないですよ。

竹内 あらら。神学を学んだ佐藤さんにして、その思いはあるんですか。

佐藤 そりゃそうです。こんなもの、できれば御縁がないほうがいいに決まってますよ。

竹内 えー!

佐藤 キリスト教との御縁さえなけりゃ、外務省でだってもう少し不真面目に生きることもできた。 

同志社大学神学部へ入学し、洗礼を受けて大学院まで出たカルヴァン派信徒(受洗して初めて母君と同じ宗派だと知ったそうです)が、よりによってキリスト教「因業」とな!

ここは笑いました。きっとかつてのソ連や外務省や検察よりも、キリスト教のほうが優さんにとっては「因業」なのでしょうね。実に優さんらしくて良いです。この貴重なやり取りを引き出した竹内氏にも拍手。

政治・経済全般に通じた、いつもの優さん節も存分に。引用は一つしか出来ませんが。

六〇年代以降は自由主義プロテスタンティズムも消えて、アメリカは神学不毛の地になってしまいました。これ、実はマッカーシズムの影響なんですよ。(中略)

キリスト教神学って、今までのお話でもお分かりのようにマルクス主義と相性がいいんです。歴史は正しい方向へ進んでいると考えるからです。特にプロテスタンティズムとはね。ところがマッカーシズムによって反知性主義が入ってきたがために、それが下火になるまでの十年間ほどは、ヨーロッパ大陸で展開された、マルクス主義との理論的な対話というような議論ができなくなったわけです。

その代わり、何でも数字に還元していく実証主義、自然科学系に流れてしまったわけです。神学ばかりでなく、人文科学や哲学の分野でも何も生まれなくなってしまった。

なるほど。アメリカにおける反知性主義、Anti inntellectualismというやつね(英語で言い換えただけじゃん)。時節柄、身に染みるなあ。

本書の最終章(第5章)のまさに終盤にて。

竹内さんは自分の専門は動物行動学だと思ってるでしょうけど、僕は著作を読みはじめたときから、この人は哲学用語でいう「存在論」をやっているとピンときました。

竹内さんの強味は、動物行動の具体的なエピソードを語っていても、必ず普遍理論化のためなわけですよね。僕の場合、恋愛とかセックスの話題に関心があっても、エピソード主義にとどまって、その先の理論化に関心がないんですよ。逆に経済の話になると、みんなが関心の高い儲け話には興味がなくて、その背後にある資本主義メカニズムに関心がいきますが。

対談相手の著作には事前に目を通し、きちんと理解しておくのが当然という優さんの姿勢がいいじゃないですか。フィナーレ前の儀礼的なエールの交換に終わらせず、きっちり自己流の洞察を交えてくるところに懐の深さを感じます。

他の優さんの多くの著作同様、読みごたえは十分な本書ではありますが、『神は妄想である』の読み方について、

さすが優さん

と唸らされた部分を最後に。

私はこの対談を通じてドーキンスに対する偏見はだいぶなくなりました。あれだけ神に徹底的に反発するというのは、神という問題圏について真剣に考えているからで、それはつまり人間について一生懸命考えているからでしょう。だから彼は怒る。なぜ人間を虚心坦懐に見ないで、これだけ捻じ曲げて神なんていう変なものをつくるんだ。そのおかげで、どれだけの人が殺し合いをして、人生を間違えて苦しんだか、だから神を除去しなければ、と言いたいわけですね。イギリス的なニヒリズムではなく、ヒューマニズムから考えている人だとわかった。

そう、そうなんだよ優さん!それが言って欲しかった!

頸椎を捻挫するぐらい、ブンブンと何度も頷いてしまいました。

ドーキンスを衝き動かすものは、ニヒリズムではなくヒューマニズムである。

神学者でありながら攻撃的無神論に惑わされず、これを看破する優さんはやっぱり凄いですわ。

以上 ふにやんま