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ふにやんま ー 世界の小所低所からー

http://funiyanma.hatenablog.com/  

『うるさい日本の私』中島義道

読書 人生観

『うるさい日本の私』中島義道(1996) 

うるさい日本の私―「音漬け社会」との果てしなき戦い

うるさい日本の私―「音漬け社会」との果てしなき戦い

 

日本の街はうるさい。

あらゆるスピーカー音の発生主に対して、敢然と抗議する。しかも絶対にあきらめないと公言して憚らない闘う哲学者中島義道氏がブレークした本です。ちなみに本業はドイツ哲学だそう。

「うるさい日本」の「うるさい私」

どちらとも取れる、なかなか洒脱なタイトルですね。

現代日本では、われわれは一歩家を出るや否や、スピーカーによる挨拶、注意、提言、懇願の弾丸を浴びねばならない。

家にいても、焼き芋屋、竿竹屋にたたき起こされ、消防署や警察署の広報車に脳天をぶち割られる。

私は買い物に行くことができない。ほとんどすべての店はすさまじい音楽をかけており、エスカレーターの注意、禁煙の呼びかけ、催し物の案内、呼び出し・・・と地獄そのものである。

私も公共スペースの過剰な音声案内には辟易するタチですので、大いに共感しました。まあ、ここまでの闘士っぷりは発揮できませんが。。。

作者の言う言葉の氾濫と空転機械音地獄浴びるような轟音との闘いの模様が大変面白い。江ノ島海岸で闘い、JR各社と闘い、美術館のハンドスピーカー案内と闘い、名所名刹と闘う。挙げていけばキリがありません。

新宿駅内でも、東口と西口を結ぶ通路で二カ所も毎日ビューカードの宣伝放送をしている。まず、いつものように、マイクをにぎる男に近づきその顔をめがけて「ウルサイ!」とどなる。一瞬何のことかとひるんだすきに、「ここは駅であり、公共の場所であるのに・・・・」と喋りつづける。それからグリーンカウンターに訴え、音量を下げさせる約束をする。だが、そんな約束など守るわけはない。

次のとき、また見つけると「ウルサイ!」とどなる。

「いつものように」っていうのが既に半端ないですね。

持ち歩いている騒音計を鞄の中から取り出して「さあ、喋ってみなさいよ。何デシベルか計ってみるから。結果を環境庁に報告しますから」と騒音計のマイクを向けると、喋らない。その日はそれで終わったが、次のときソッと後ろから行ってスピーカーのスイッチを消してしまった。だが、暗騒音の高い新宿駅構内のこと、マイクをにぎり酔いしれるように喋りつづけるように喋りつづける彼は気がつかない。

ははは。笑い事じゃありませんが。でも面白い。

バスの車内放送。いかに懇切丁寧に、微に入り細を穿って乗客の安全に配慮したアナウンスが、繰り返し繰り返し流れることか。ご存じないかたはおられないと思いますので、そこは省略。

車内をよく観察してみよう。立っている人は全員つり革や手すりにつかまっている。でないと、揺れる車内で身体を安定させることができないことを知っているからである。そして、曲がり角などでは、それまで漠然とつり革に手をやっていた人はギュッとにぎりしめる。「走行中」でも自分の降りる停留所が近づくと、車内の前のほうに走ってゆく人がいる。「走行中」でも、後ろの空いた席にずれる人がいる。だが、運転手は注意しない。降りるさいは、みな足元を慎重に確認して降りている。

つまり、一方で放送がなくとも人々は最低の身の安全を承知しており、他方で放送があるにもかかわらず、バス車内で人々は「おやめください」と言われる行為をくりかえしているのだ。車内放送は、危険を防止するという実効はないのである。

そう、実効性のないアナウンス が氾濫している現状はおかしい、という著者の主張は間違っていないはずなんです。

全路線の乗換案内や、乗換先路線の切符の車内販売なんて、その情報を必要とする人の存在すら確かに怪しい。観光シーズンならまだしも、通勤や通学でほぼ決まった乗客しか乗っていないのに、毎日延々と流される録音テープ。絶対におかしいでしょ。

それを「万が一にも事故があったらいけないから」「事故が起きた時に、回避義務云々で責任を問われたくないから」という、極めて日本的な配慮が覆い隠してしまっている。過去の事故例とか発生率とか関係ないんですね。待っているのは「お客様に、もしものことがあってはいけませんから」という極め台詞。

今ならばジョルダンGoogle Mapsがあるじゃないですか」と言っても、きつと「いやいや、スマホをお持ちでないかた、視覚が不自由なかた、ご高齢のかたといったお客様もおられますから」って返されるんでしょうねー。

弱者への配慮って、そういうことじゃないと思うんだけどなぁ。

困った人がいれば聞いてくるでしょ。その理屈が通じない。

この「困ったら聞いてくるだろう」が、なぜ社会の前提として通じないのか。本書後半は、笑える前半とは打って変わって、硬派な日本人論が展開されます。

ウチの周りだけ来なければ、その損害分はお支払いします

撃退の為に屑鉄屋に一万円、焼き芋屋に三千円を払う奇特なだけの人じゃありませんでした。もっとも自宅が職場である者として、互いの営業を妨害しない為のきちんとした交渉の結果なのですが。話が逸れてますね。

本書では出てきませんが、最近忖度という言葉がよく使われます。相手の気持ちや立場をおもんばかり、先回りして動いてあげることは、日本古来の美徳とされてきました。

しかしながら、行き過ぎた忖度のはびこる社会は、言葉によるコミュニケーションを否定する社会に繋がっている。

これがイカンのだと。

音漬け社会の元凶は、日本社会に充ち満ちた強い同調圧力だと、筆者は看破しています。

「自分がされたらイヤなことは他人にしてはいけない」正論ですね。

この正論が「自分がされてイヤでないことは、他人にしても構わない」「自分がされて嬉しいことは、他人も嬉しいに違いない」といった間違った飛躍をしているのが今の日本社会だ、というのが筆者の主張です。

マジョリティの暴力

 これが曲者なんだよと。

マジィリティはおたがいにこのルールに従って、注意しあわず、議論をしあわず、駆け寄って助け合わず、質問をしあわない。(中略)すべて放送がしなければならないことになる。

そして、「いじめ」は、まさにこうしたマジョリティの暴力が支配する社会そのものが生み出したものである。みんな同じ感受性をもっていると妄信しているから、そこから外れた感受性をもつーーー私のような音の氾濫に苦しむーーー者は徹底的に救われない。「ほとんどの人は苦しくない」という暴力的論法によって無残に切り捨てられるのである。

他人を自分の投影と捉えず、自分とは「異質のもの」として認識する。生徒に自分の言葉で決して「語らせようとしない」学校教育の在り方を改める。筆者の提言にはなるほど!と唸らせるものがあるのですが、何と言っても本書結びの十ニ条(筆者曰く、まだまだ挙げられるそうですが)が傑作です。少しだけ抜粋。

一、つねに自分の視点を忘れず、いかに多くの人が反対しようと「私は~したい」「私は~したくない」と一度は語ってみる。その後(場合によって)全体に従う。

三、なるべく他人の発した言葉の裏に隠された感情、思惑、意図を探ることをせず、あえて文字どおりの意味をとらえるようにする。「あの人どういうつもりでこんな言葉を吐いたのだろう」とクヨクヨ考えることをやめる。

十二、相手を傷つけるから、あるいは心配かけるから言わない、という態度をなるべくやめる。「どうした、顔色悪いよ」と親に言われたら、「なんでもないよ」と答えるのではなく、「きょう、学校でカンニングしてつかまった」と答える。

何ごとにつけ「察し」が悪くなろう、という筆者の主張には大いに賛同しました。しましたので、こういう時は避けるであろう「オチ」の十二条目も引用しちゃいました。

大いにお薦めの一冊。勿論、文字どおりに捉えて頂いて結構です。

以上 ふにやんま