ふにやんま ー 世界の小所低所からー

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『ひとを〈嫌う〉ということ』中島義道

『ひとを〈嫌う〉ということ」中島義道 (2003)

気になった人の本は続けて読む癖があります。前エントリで取り上げた『うるさい日本の私』に続き、 下の2冊を読んでからの

私の嫌いな10の言葉

私の嫌いな10の言葉

 

 

人生に生きる価値はない

人生に生きる価値はない

 

表題の1冊、『ひとを〈嫌う〉ということ』 これが一番面白かった。

中島氏、ご自身の家庭について『うるさい日本の私』で 実質崩壊 と一言触れていましたが、本書ではその実情を明らかにしています。人様の家庭不和に触れるのも趣味の悪い話ですので簡単に。元々、氏はウィーンに奥様と14歳のご子息を伴なって研究のために滞在しておられたのですが、

私は家から追い出され、昨年暮れにわが家の近くのホテルに移り、三カ月そこに滞在し、今年三月在外研究の期間が切れてひとりで帰国しました。その後ふたりはウィーンに留まり、時々私がウィーンを訪問したりふたりが帰国したりしますが、妻はカトリック洗礼志願者として毎日聖書と祈りの生活、そして息子は私を完全に拒否したまま顔を直視しない関係、何も言葉をかわさない関係、おたがい相手が存在しないかのように振る舞う関係が続いております。

きっつぅ。「だからこんなシニカルな本ばかり出すようになってしまったのね」ということでは全く無いのですが、この事実を知っておくと氏の著作、大いに味わいが増しますので予備知識としてご紹介しておきます。しかし身につまされるなー。

タイトルから伺えるように、中島義道氏、相当偏屈です。で、なんでこんな変な学者さんの本が気になるのか。

私も相当偏屈でした。

いやー、齢50に届こうかという年になって初めて気づきました。ありがたいことです。やっぱり本は読んだほうがいいや。

サラリーマンには同期というのがありますよね。サラリーマンに限りませんが。同期会とかがあると、私も昔は一応顔を出してました。今は全く参加しませんんが。

で、酔いがまわってくるとあちこちから聞こえてくるんですね。同期賛歌が。

「いやー、同期ってホントいいよな~」

「会社で心から気を許せるのは、同期会だけだよ」

私、そいつの顔をまじまじと見つめちゃいますもん。

こいつ正気か?って

同期クラスメートに置き換えてみましょうか。クラスには気の合うやつもいれば合わない奴もいる。ブルーハーツ風に言えば「いい奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない」(TRAIN-TRAIN)そんなところで御の字でしょう。

先生の掲げる「クラス仲良く」はお題目としては間違ってはいませんが、「クラス全員とお友達になりましょう」までいくと受け入れがたい。なんでクラスの全員と仲良くせなアカンの?そんなん、ありえへんし。

同期だって同じでしょう?同期の中には、気の合うやつもいれば合わないやつもいる。気のあうやつとだけ付き合えばいいいし、それならば同期の枠に縛られる必要なんかこれぽっちもない。

新人研修で人事部のメンバーがよく言ってました。「この繋がりは一生ものだから大事にしろよー」「縁あって集まった仲間だからな」って。違和感感じまくりでしたね。難しいプロジェクトも、自然と集まった同期の団結で一気に解決! 池井戸潤かよ。

やっぱり偏屈な私大人の階段を昇れずに死ぬのね。別にいいけど。

人脈はあるに越したことはないのがサラリーマンですが、そんな打算含みで付き合うのはまっぴらごめん。ましてや気の合わない社内の人間と、大好きなお酒を呑む時間なんて、こちとら残されちゃいないんだよ!そんなに長い人生か!と啖呵のひとつも切りたくなります。ブルーハーツ、もう1回出していいいですか?

どこでもいつも誰とでも笑顔でなんかいられない(チェインギャング)

「それでいいんだ」「それで当然なんだ」「それを受け入れて物事を考えようぜ」というのが本書の趣旨でありまして。あ、俺だけじゃないんだ、こういうものの考え方をするのって。目からうろこだいる。

「結婚式には出ないと決めている」も同じでしたね。披露宴への出席を打診されると、二人が仲良くやってるんだからいいじゃん、葬式には絶対出てやるからな、とか平気で言う私。大前研一氏も結婚式は出ないそうです。

「負け犬」という特性を他人は私にべたべた貼り付ける。私はその場合自分は「負け犬」じゃない、あるいは「負け犬」でもいいじゃないか、と自分に言い聞かせても効果はない。(中略)私は「負け犬」を自分に対して承認せざるをえない。私は自分を「負け犬」という一言でまとめあげる共謀者の役を担わざるをえないのです。このことがわからない鈍い人が多くて困ります。

「前科者!」とか「人殺し!」とか「私生児!」とか「オカマ!」とか「インポ!」とか「片端!」とか「パンパン!」とかの言葉を投げつけられた当人は、常日頃そのラベルの不当性に激しく抗議しているはずなのに、とっさに他人からこうした言葉の矢が飛んできたとき、平静ではいられない。頬は熱くなり、心臓の鼓動は速まる。こうした身体の変化をもって、自分がその言葉を引き受けていること、そしてそうした自分に羞恥心を抱いていることを承認している。つまり、頭でどう思おうと、身体全体で反応する羞恥心を通じて、こうした呼称が自分に貼られる正当性を承認しているのです。それがまったく不当であると感じているのなら、生じるのは怒りだけであって、羞恥心ではないはずですから。

文化的、歴史的に「観念」として伝承されていく嫌悪感がいかに危険で抵抗し難く、個人の領域では対処しづらいかを語った部分です。最近では最も唸らされた一文でした。

「性格を変えて楽しく充実した人生を」みたいな軽薄な本とはちょっと違いますので、ご注意ください。結構骨がありますよ。

以上 ふにやんま