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ふにやんま ー 世界の小所低所からー

http://funiyanma.hatenablog.com/  

『丘の上のバカ』ぼくらの民主主義なんだぜ2

『丘の上のバカ』ぼくらの民主主義なんだぜ2 高橋源一郎(2016) 

月イチの「朝日新聞論壇時評」から4年分、48回をまとめたものが前著。その続刊が本書です。2200文字という量的制約と、新聞の広い読者層を踏まえて、2冊とも平易で読み易い。「民主主義とは何か」を自らに鋭く問いかけつつ、読者にも新たな啓発を与えてくれる良書です。たとえば。

民主主義から少し逸れるのですが、『もっと「速さ」を』という本書の一文から。

だれかがなにかを書いていて、ああ素敵だ、と思えるときがある。そういうとき、それはなぜだろうか、と考えると、そこに「知性」(の働き)があるからではないか、と思えることが多い。

こういう謎かけっぽい切り出しから始まることが多いのは、意識しての技巧なのでしようね。それはさて置き。筆者は「尊敬する」という形容とともに鶴見俊輔氏の一節を引用します。

 〈私の息子が愛読している『生きることの意味』の著者高史明の息子岡真史が自殺した。『生きることの意味』を読んだのは、私の息子が小学校四年生のときで、岡真史(14歳)の自殺は、その後二年たって彼が小学校六年生くらいのときだったろう。彼は動揺して私のところに来て、

「お父さん、自殺をしてもいいのか?」

とたずねた。私の答は、「してもいい。二つのときにだ。戦争にひきだされて敵を殺せと命令された場合、敵を殺したくなかったら、自殺したらいい。君は男だから、女を強姦したくなったら、その前に首をくくって死んだらいい。」   

 そのときの他に、彼と男女のことについてはなしたことがない。私は自分で、男女のことについて、こうしたらいいという自信をもっていないからだ〉(『教育再定義への試み』)

答の重さと、小学生の息子さんに即座にこの重たい答を返す鶴見氏の覚悟とに、しばしフリーズ。比喩ではなく、血を吐くような答が持つ質量に圧倒されて、身体が固まります。

こういうセンシティブな内容を、前後の文脈抜きに引用することは誤解を免れえないと知ってはおりますが、恐れず前に進む私。

わたしは、時々、学生たちに、同じ質問をしてみる。すると、回答は二つに分かれる。    

(1)難しい、といって絶句する。      

(2)少し考えて、紋切り型の回答をする。「死んじゃダメだ。生命はなにより大事だから」といったような。(中略)

でも、このときの「考える」は、ほんとうに考えている、といえるのだろうか。こういう場合の「考える」は、ただ、どこかにある正しい回答を探しているだけで、そういうのは、「考える」とはいわないのではないだろうか。

注)赤字は引用者(ふにやんま)。本来は傍点が振られております。

むむむ。そういう気がする。借り物の答を息子に返すのは嫌だなあ。

実は、この「回答」は、前の戦争中、鶴見さんが自分に対してもっていた「回答」だった。いいかえるなら、鶴見さん自身に向かってだけの「回答」だった。

鶴見さんは、自分は弱い人間だから、戦場に出て敵を殺せと命令されたり、やはり戦場で女性を前にして他の兵士たちが強姦するのを前にしたら、同じようなことをしてしまうだろうと考えていた。そうならないようにする唯一の方法は、その前に自殺してしまうことだった。だから、鶴見さんの「回答」は、「…だ」ではなく、「わたしなら…する」というものだった。

高橋氏の意図は、小林よしのり氏の『戦争論』的な議論をすることでも、西村眞悟氏(古いかな)のような発言の是非を問うことでもありません。一般的な自殺論ですらない。いずれも大事ですけれどもね。

世界からの問いに、「わたしなら、こうする」と即座に回答すること。この「回答」と、それにも増して、その速さの中に、わたしは、深い叡智を感じるのである。

ただ「速い」だけの「回答」を作ることなら、だれにでもできるだろう。          

だが、ほんとうにわたしたちが必要としているのは、そのことによって、受け取る側の人間が、自力で、どこか遠くへ行くこともできるような「回答」だ。

かーっ。やつぱり上手いな高橋源一郎氏。このあたり流石です。

そのような回答を「速く」、作り出すことのできる力、それを、「知性」と呼んでもかまわないような気が、わたしにはするのである。

別項ですが、今流行りの反知性主義については、      

わたしは、「反知性主義」という言い方の中に自然に含まれてしまう、「あんたたちは反知性だけれども、こっちは知性」というニュアンスが、どうしても好きになれないのである。 

とサラッと言い切ってしまう高橋源一郎氏。本当の知性とはこういうもんじゃね? と投げかけられた読者は、ここで深く首肯かざるを得ません。

他にも『伯父さんはルソン島に行った』      オバマさんのことば』等、読み応えのある項がふんだんに。高橋氏の意図とは無関係に使われそうな危うさすら感じます。          

これだけの内容でしかも新書ですから、気になられたかたは是非全文をご確認下さい、と結んでも無責任ではないですよね?

力量不足を「自分で読んでね」で誤魔化しつつ、それを隠さぬ私。雄々しい。

以上  ふにやんま